先輩たちのサンプリングに対する意識
part2では、自分がこれまで注目してきた先輩方のサンプリングに対する意識・態度について、あたれる文献から比較を試みます。今回、私が射程とするのは以下の分野の諸先輩です。
ナードコアテクノ・ガバ・現代美術(シミュレーショニズム)
part1では、ナードコアテクノを「好きすぎるものへの愛情をテクノミュージックを通して見せつけたい気持ちで作られた音楽」であるとする解釈を紹介しました。ここで注目するのは、「愛情」です。もう少し広くとって、「サンプリング対象への想い」としましょうか。上の三つの間というか、サンプリングベースで活動しているアーティスト達の間で、サンプリング対象への向き合い方に差異が強く現れると考えます。以下では、各分野の特定の先輩方について取り上げて説明をしていきますが、その先輩方の見解が各分野の総意というわけではないことには注意してください。
ナードコアの愛
ナードコアは、一般には「アニメ・ゲーム・映画・テレビなどの音源をサンプリングしたテクノ」として伝わっていることが多いと考えます。そのような意識のみでナードコアを作っている人も多くいると考えます。しかし先に紹介した定義のように、ただただ無神経に、あるいは何らかの悪意を持ってサンプリングするのではなく、サンプリング元への愛情表現、ないしは好きなものをさらにカッコよく見せたいという態度を持った上で制作をするという意識もこの分野の根底には流れていたと考えます。もう10年以上前(!)の記事ではありますが、次の記事にその様子が垣間見られます。
underdefinition.hatenadiary.jp
政所さん(現・プロハンバーガー)はレオパルドンという名義で初期ナードコアシーンを牽引していた一人で、私がナードコアテクノやインドネシアにハマっていったきっかけの一人でもあります。
レオパルドンは吉幾三や香港映画、特撮などをサンプリングする作風でしたが、彼が運営していた「レオパルドン秘密基地」というサイトでも香港映画に関するコラムが多々見られ、その愛は確かだと考えます。
レオパルドン以外のアーティストを見ても、全日*1は志村けんやゲームが好きだと思うし、DATゾイドさん*2はプログレが好きだと思うし、ディスクさんはDJケオリが好きだと思います(?)。具体的にソースを出せと言われると困り果てるのですが、そういう印象があります。
しかし記事でもあるようにこれがナードコアの総意ではなく、例えば「犬死に」*3は別の見解があると考えます。他に、ツイートが出てこないので不正確ですが、BUBBLE-Bさんは好きなものをサンプリングという方法へのアンチテーゼで、ネタモノテクノ名義ではどうでもいいものをサンプリングするというのをやった、というようなことを言っていた気がします(違ったらすみません)。ナードコアという括り自体、各地で同時発生的に出現していたものがクイック・ジャパンという雑誌によって「ナードコア」という括りになった、という流れのようなので、再三言うように異なる問題意識を持ってやっていた方はいます。
ちなみに私はテレビが好きなので、テレビ番組やテレビタレントのサンプリングが比較的多かったように思います。でも、好きなものをサンプリングするという意識よりは、誰がこんなのをサンプリングするんだ?というものをサンプリングする、という意識のほうが強かったかもしれません。「誰がこんなのを」というニッチさというか、メインストリームへのカウンター感も自分が好んできたナードコアの特徴かもしれません*4。
サンプリングにはドラムぐらいの意味しかない、ガバ
今度はガバに目を向けてみます。そもそもナードコアテクノにはガバをベースにした音楽が多々見受けられるし、「ナードコア」という名前からアニメガバ=ナードコアという誤解が産まれることもあるぐらいなので、これも分かりやすく境界線を引くことは困難ではあると思います。
ここでは、Hammer Brosの見解を紹介しましょう。Hammber Brosは日本で1994年から活動している、Big the Budo(Shit da Budo, MC Shit B)・Tatsujin Bomb・Tokyuhead(Librah、DJ Lib)からなる3人組のガバユニットで、高橋名人やはだしのゲンのサンプリングがよく知られています。詳細は以下の記事などが詳しいです。
彼らはどのような意識でサンプリングしていたのか。ここで、Quick Japan Vol.12でのHAMMBER BROSへのインタビューを引用します。
TOKYU: 曲じゃない部分で、サンプルネタそのもので「ここ、笑ってください」「ここ、笑うところです」っていうのは"ハンマーブロス"では無いなあ。
BUDO: (自分たちのは)笑えないサンプリングばかり。これは"ナセンブルテン"がやってるんですけど、なんの脈略も無くテレビのショー司会者が「また来週」って言って客席が拍手して曲が終ったり、そういうのって意味不明ですよ。本人達が面白いと思ってやっているのかさえ、わからない。全員には絶対にわからないという使い方。見下してるわけでもないし、狂ってるわけでもない。これは彼らから学んだつもりなんですけど、笑いのネタにとか、パロディとか、狂ってるように見せるためとか、そういうサンプリングの使い方って、自分の中ではもう終わってる。もうちょっと違う使い方があるんじゃないかなと思うんですけど。
(中略)
―"ハンマーブロス"の、サンプリング対象への思い入れとか距離感っていうのは、どんな感じなんですか?
TOKYU: なんていうか、サンプリングしたものには、ドラムぐらいの意味しかないっていう感じかなあ。
Quick Japan Vol.12(1997) 太田出版 pp156.より引用
ナードコアがサンプル対象への愛を示しているのとは打って変わって、Hammer Brosはサンプル対象の文脈や愛情を無効にするかのような態度です。ナードコアは愛があるんだろうなと分かるし、パロディはどういう意図があってやったのかが見えますが、Hammer Brosの場合は愛や意図があるかないかとかではなく、分かりません。見えないようにしています。「ドラムぐらいの意味しかない」というのがそれを明瞭に示しているような気がします。
1995 GENPRODUCTIONなるはだしのゲン原作者公認のページがかつてメンバーによって運営されていたように、高橋名人やはだしのゲンに対する何らかの関心はあるんだろうと思いつつも、それが好きなのかよく分からなくなるサンプリングセンスでかっこいいと私は感じていました。
私がメンバーの一人であるリョウコ2000は2020年に「Parasitic Dominator」というガバのEPをリリースしていますが、私自身はこの制作において上述の態度に強く影響を受けておりました。
以上はガバというよりHammer Brosの態度でしたが、例えば以下のシャープネルさんのインタビューにあるように、サンプリング元に対してナードコアのように愛があるかはあまり見えてこない(本人にインタビューすればあるのかもしれない)、これを入れるとなんか良いから入れるんだみたいなサンプリングというのは、他のガバでもよくあったように思います。
シミュレーショニズム
音楽から打って変わって、今度は現代美術に話を移します。以下の多くは椹木野衣 - 増補 シミュレーショニズム ハウスミュージックと盗用芸術(筑摩書房,
2001)や1990年代の美術手帖などを参考にしています。私自身が1994年産まれで、美術に強く関心を持ち始めたのもここ3〜4年ぐらいの話なので、電子機器や紙面の情報のみでしか知らないのがなんとも悔しいところではありますが……。
シミュレーショニズムは1980年代頃よりニューヨークを中心に流行した芸術動向です。盗用芸術と言うように、ルールに則った引用などではなく、勝手に過去の著名な作品の全体や要素をぶんどって全く別の文脈に接続し、自身の作品として提出する「アプロプリエーション」といった方法論でもって作品が制作される傾向がありました。
個別の作家をいくらか挙げると、
リチャード・プリンスは広告や雑誌などの写真を再撮影し、拡大したりトリミングしたりした作品を発表しています。写真の広告としてのメッセージ性は排除され、写真というメディア自体の性質や歴史、あるいはオリジナリティという概念に言及する形になっています。
シェリー・レヴィーンは男性優位の業界に待ったをかけるフェミニズム的観点から、過去の男性写真家による写真作品をそのまま撮影し、自身の作品として発表しています。
マイク・ビドロは、現代美術においてあらゆることがやり尽くされすぎていて、本当にオリジナリティのあるものなど思いつけやしないというペシミズム的な態度から、過去の名画をそっくりそのまま模写して自分の作品として発表をしています。(そしてそれが却ってオリジナリティとなっている)
他にもシンディ・シャーマンやら森村泰昌やらジェフ・クーンズやら挙げだすと切りがないのでこれ以上は書籍を参照してほしいのですが、この動向の背景には、複製技術が極度に発展しまくった消費社会への批評、美術芸術の権威的な側面に対するマイノリティからの抵抗、オリジナリティや進歩史観の問い直し・解体、などがあったようです。
つまりどの作家もナードコアのようなサンプリング対象への愛みたいなものはない、むしろ憎い寄りなのかもしれない。加えてHammer Brosのガバのように、サンプリングした理由を説明できないようなものかと言われると、むしろコンセプト・意図はかなりある。現代美術は歴史的経緯から基本的にコンセプト重視で(その風潮を批判する向きもいくつかありつつ)、ナードコアのようにただただ好きだからモチーフにした、だけでは現代アートとしては評価されない傾向があると考えます。
シミュレーショニズムのずるいというかややこしいのは、進歩史観、新しさ信仰を否定して、過去の産物を掘り出してゾンビのように繰り返すわけですが、それが却って新しさになってしまっているし、過去の産物を別の文脈にくっつけて再構成する方法なんかも結局新しさを提示しているような気がする所だと私は思います。そして、そのシミュレーショニズムの感覚に従ってやった所で、それは結局シミュレーショニズムの二番煎じみたくなってしまう。という話をして行きたいのですが、長くなるので次回以降に回します。
まとめ
ナードコア・ガバ・シミュレーショニズムの三分野におけるサンプリングという方法に対する態度をまとめます。
ナードコア……サンプリング対象に対する愛がある。愛を発露するためのサンプリング
シミュレーショニズム……サンプリング対象に愛はない。別の意図がある。
ガバ……サンプリング対象に愛があるかどうか分からない。意図も見えない。
こうしてみるとナードコアとシミュレーショニズムなんかは、サンプリングという点で共通してるように見えても、制作に対するモチベーションが真逆です。
付け加えると、音MADなんかは、話題になった面白ニュースや面白人物、アニメと流行ってる曲を組み合わせて作るというものが多く、それはナードコアのような愛がない上にシミュレーショニズムのような意図もない、ガバのように愛があるかどうか分からない訳でもなくただ愛がない、というものも多く見られます。(もちろんドナルド教信者のような方々のように、愛ゆえのものも多くあると思います)
愛があるとかないとか意図があるとかないとかで良し悪しを論ずるつもりはなく、そういう差があると言える事のみをここでは示したいのです。
私はこれまでナードコアテクノを基盤に活動してきましたが、振り返るとナードコアが好きというよりは「サンプリング」という方法論、もっと言うと「無許可でパクる手法」自体に関心があって、だから音MADもナードコアもガバもシミュレーショニズムも同等に興味を持ったんだと思います。ただ、自分は思春期にナードコアで育ったため、ナードコア的な方法論をとってきたし、一時期は若気の至りでナードコア原理主義みたいな状態でした(本当に詫びて回りたい)。
さて、ここまでである意味音楽におけるサンプリングの大先輩と言えるヒップホップやハウスにはまだ触れてきませんでした。これについては、次回「サンプリングの暴力性とサンプリング・ネイティブ世代の葛藤」というテーマで触れていきたいと思います。
次回に続く
*1:http://chigai.pico2culture.jp/article/182747272.html
*3:西村物産主催のイベント及び、周辺界隈を指す。レオパルドンなどが主に出演していたパーティ・SPEEDKINGへの反対勢力と取れるような記録が残されている。
*4:今は大きなメインストリームみたいなのがあんまりないので話も変わってきますね