おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

2022/01見た作品まとめ

何を見て何を感じたのか記録しないと、全てが忘却の彼方へ……それは年々加速していることを痛感したので、今年は積極的にメモしていく。文字に書き起こす事で思考がまとまる効果もある。

観た展

GUTAI展(中之島美術館)

なんだかんだ中之島美術館には行ったことがなかったし、具体もなんとなく気になっていたので丁度良かった。

白髪一雄のいささかファニーな技法とは裏腹に、出力された鬼気迫るビジュアルは仰々しいタイトルも相まって、山に感じる畏怖みたいなものがあった。

吉原治良の絵はなんか見る距離でめちゃくちゃ印象が変わる気がしたし変わらない気がした。

金持ちの社長さん(吉原治良)の一言で全てが決まる感じは逆になんか清々しい。

あとやっぱ具体は全体通して関西特有のバイブスがあると思った。

それはいくらなんでもトンチこきすぎやろとか、それやっちゃうのかよみたいな良くはない作品も見られ、やれることやったろうという実験精神が強く見て取れてよかった。

アンディ・ウォーホル

去年ぐらいから観たいと思ってたのだが腰が重く、ようやくといった感じ。

これだけ会期のスタートから日が経ったにも関わらず、やはり人は多かった。そして何よりも、作品をバックに2人で自撮りしている観客や、《ギャングの葬式》(1963)という作品を見て「ほんまやギャングの葬式やなぁw」とろくすっぽキャプションも読まずに雑に消費していく観客たち(ギャングの葬式に写っている葬式のイメージは、ギャングではなく老女の葬式、というキャプションがついている)などが大勢いて、自分らも含めみんなウォーホルの手のひらの上で転がされている感じがヤバかった。

代表作の一つであるブリロボックス。恥ずかしながら勉強不足で、実際のブリロの包装箱を使っている、いわばデュシャンレディメイドの焼き増しみたいな物だと思っていたので、今までなぜ代表作なのか分からなかった。しかし実際に見てみると、レディメイドではなく、ブリロの包装箱を木で模した彫刻作品であった。それをこの目で見て認識した瞬間、全てを理解した。

他にもかの有名なマリリンモンローの作品などがあったが、それらには何故か「あの教科書で、あの本で見たアレが、コレか!!!」という感動(ベンヤミンの言う"アウラ"か?)が、何故かこれっぽっちも無かった。そこに自分はウォーホルっぽさを感じた。だからクソとかいう話ではなく、そう思ったという話だ。

観た映画

GOSPEL

GOSPEL 【日本初配信】 | ドキュメンタリー映画|アジアンドキュメンタリーズ

自分もこれを見るまであんまり意識がなかったのだが、ゴスペルはそもそも神を賛美する、神に捧げる音楽である。ところが日本人のゴスペルシンガーの9割以上は非クリスチャンで、「楽しかったらなんでもええやん!」と、悪い言い方をすればリアルのゴスペルにリスペクトのない人も少なくないという状況らしい。

神とかより音楽を楽しむことに主軸を置きたい日本人シンガー、それを理解できないと呆れるゴスペル原理主義黒人シンガー、マス・コーラスと割り切って宗教色を落とすゴスペル講師、リアルのゴスペルを追い求めて本場の黒人教会で活動する日本人、このドキュメンタリーではいろんな立場の人から本現象を追っている。

この手の話はヒップホップやハウス、ハードコア、ナードコアなどいわばアンダーグラウンド発祥のジャンルでも昔から多く見られる現象で、ただゴスペル宗教が絡むため、話はよりシリアスになる気がする。

リアルとセルアウトのアンチノミーに纏わる話は最近ずっと自分も公私ともにしていて、もうええっちゅうねんという気持ちにもなりかけるが、諦めずに暗中模索するしかない。思っていた解法が見つからなくても、何か別のものは見つかる気がするし、見つからない気もする。

観たライブ

Oli XL(京都METRO、2023/01/15)

自分がいわゆるエレクトロニカに今更興味を持ち始めた頃、何故か業界にもエレクトロニカ新時代の空気が流れ始めていたので、いよいよ真剣に本質を見据え、ただの一過性のリバイバル的な・ファッション的な消費で終わらせないよう手も頭も動かさなければならないな、と思っていた所で来日の情報。

他の出演者は京都でも積極的に活動している、雑にジャンル分けしてしまうとエクスペリメンタル等に接近している方々が多く、京都的という感じだった。

個人的には小松さんとウープさんに心惹かれるものがあった。真似しない(できない)けど真似したくなる音だった。

一方で、自分が京都のそういうイベントにばかり足を運んでしまっているので、若干食傷気味になる時間もあった。もっと色んなイベントに足を運ばないといけないなと感じた。

また、エクスペリメンタルに接近しているサウンドの人のライブは、観客の理解が追いつきにくいのか、そもそもクラブパーティというシステムと相性が悪いのか、風土なのか、ライブ終了後の観客からのレスポンス(=拍手・歓声)までの間が妙に小気味悪かったり、レスポンスそのものもパラパラとしたものになってしまう傾向がある。分かりやすいレスポンスだけがライブの良さの指標になるのではないとの了解は十分にありつつ、どこか変な気持ちになってしまう。エクスペリメンタルではないが演者としての自分もその経験はよくあって、演者・観客どちらの立場からしても不安な気持ちになるのである。なんとかしたい事でもあるし、でも味でもあると思う。

 

さて肝心のOli XLはというと、なんか良かった。TTが諸事情で変わってしまってOli XLが最後になったため、終電の都合で最後までは見られなかったが…‥

エレクトロニカ的なものは正直クラブのような大げさな音響設備ではなく、家庭で置けるレベルのスピーカーやヘッドフォンで聴くのがベストだとずっと思っていたのだが、まずその考えは改められた。デカい音で聴くのがいいものもある。Oli XLがそうだったというだけの話でもありそうだが。

とりあえずOli XLのおかげで次のアルバムの道がまた一つ見えた。頑張りたい。

読んでる書籍

現代アートの哲学(西村 清和)

出自が理工系で、美術教育も中学の義務教育までしか受けていないので、基礎の欠落を日々痛感している。独学での限界はあるだろうとは思いつつも、やれることはやろうということで昨年から読み始めた本の一つ。

 

《第8章 趣味と批評》について。

「感じ方は人それぞれ」「普通って何?」「人の好みは色々なので〜」「蓼食う虫も好き好き」こういったクリシェはかつて自分も好んでいたし、多様性が一つのテーマとなっている現代では相性の良い文句でもあるが、そんなワイルドカードみたいなのばかり使ってるのってもしかして逃げじゃないか?とモヤモヤもあるし、じゃあ美術批評って何なんだ?という疑問もあった。本章ではそのモヤモヤに道しるべを与える。

この章では「よき趣味」「悪趣味」に纏わる先人達の言説がまとめられている。

「趣味については議論できない(個人個人で趣味は違うので)」というアポリアについては、ヒュームやカント、マーゴリスらが色々述べている。歴史的な流れや詳細は本で読んでもらうとして、ここではマーゴリスの説明を中心に、自分なりにいい加減に引っ張り出すとする。論文とかじゃなく個人のメモだからいい加減で別にいいだろう……。本当にただ本の内容を自分の言葉を含めながら切り貼りしただけのメモなので、以下の灰色のパートはあまり読まなくてもいい。

 

趣味には美的な快の個人的な経験に、評価・判断という要素が加わる。

趣味という美的な経験の根底には、まずただの好き嫌いという「個人的な趣味」がある。この個人的な好き嫌いが、一定の理由で正当化されて主張されると、それは「評価・判断」になる。マーゴリスは「鑑賞判断」と呼んでいる。「この絵はエロくて良い」「この曲は荘厳さがあって良い」といったような、自分が好きな理由の話。

もちろん、この主張に対して友人が「いや荘厳じゃなくて軽薄だからだめだろ」と、彼の理由を主張して、説得することもある。カントは「趣味については議論できない」の「議論」について、証明で真偽を決める「論議」と、他人との判断の一致を要求する「争論」があるといい、「論議」は不可能とし、この場合は「争論」の議論ということになる。

さて、批評家は自身の好みとは無関係に、社会的に受けいられている、ある作品の価値について述べることがある。これは社会的なレベルの趣味と判断、ということで「範例的ないし公的趣味」、またこの趣味を正当化する判断として「評決」というのがあると言う。評決が鑑賞判断と異なる点は、社会に属する誰にとっても対象が好ましく、良いことの理由でないといけない点。

評決のレベルでも、「美しい」といった言葉は言えて、それは社会・文化が評決にいたる事実認定や客観的理由付けを総括する言葉として要約したようなもの。だけど、それは時代や民族、人々の趣味などの背景とは無関係に、その作品自体に属する永久不滅の特質ではない。

なので相対的といえば相対的なのだが、それでも比較的安定した潮流として、十分に価値判断としての意味はもつとマーゴリスは言う(強靭な相対主義)。そもそも範例的趣味は争論を通じて合意が生まれ、それが慣習や規範となって、伝統としての安定性を獲得したものだから。個人のレベルで見ても、趣味は範例的趣味の影響下でそれぞれの趣味をやしなってきた。

批評家の仕事の一つは、個人的趣味と範例的趣味の媒介、とも言える。すでに伝統となっている趣味の体系を擁護したり、あるいは新鮮な個人的趣味に基づいて新たな趣味の体系の形成を推し進めたり。

でも批評家は個人の趣味に対して議論で説き伏せることはできない。一方で個人は批評家の判断に影響を受けて自分の趣味に取り込む動きもできる。

 

加えて、批評とは美的な快の正当化だけをしてたわけではない。作品の美的な快の経験が、人にどのような影響をもたらし、何を考えさせるかを論じるというのもある。ただし一切の美的快楽を有用性への使用価値に還元し、それが作品の本質としてしまわないよう注意が必要。

 

まああたりまえ体操と言えばあたりまえ体操ではあるのだが、こうして言語化されるとスッキリする。あとオススメを聞いて「好みは人それぞれなんで〜」と言う人には、そんな事は当たり前なので多くの人の好みの傾向(評決)か、お前の好み(鑑賞判断)を聞かせてくれと言いたい。