おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

無害かつ無価値を目指して

ここ数年の個人的な裏テーマの一つは「役に立たない作品を作る」となっている。

そもそも、世の中の役に立ちたくないのである。にも関わらず、私は役に立つことが前提であるエンジニアリングをする会社の員として生計を立てているし、趣味の文化芸術活動でもエンジニアリングをバリバリにやっている。

 

今日は仕事の休憩中に、理由こそ覚えていないが、有用無用にまつわる事を考えていた。もう既に誰かがとっくに議論した話かもしれないし、何の意味があるかも分からないが、書きとめておかないといけない気がしたので、書きとめることにした。ツッコミどころはものすごく多いので、話四分の一で見てほしい、というか見なくていい。以下より。

弊害-価値分布図

まずおもむろに、横軸に「価値(有用性)」、縦軸に「弊害(有害性)」をとった分布図を作ってみる。

はじめに断っておくと、この軸の言葉選びはもう少し推敲の余地があると思っている。その点は後々アップデートしていきたい。

この分布図における横軸の価値(有用性)とは、「どれだけ役に立つか」、有益であるかを示すものである。有用性とも言えるが、のちに述べる「観点(=視座)」によっては、有用という言葉を用いると違和感がある場合もあるので、ここでは価値とした。

縦軸の弊害(有害性)とは、「どれだけ害をもたらすか」、そのままである。アクティブな「加害」のみでなく、それが有るだけで悪影響が生じるパッシブな害、公害的なものも含める。

ここで注意したいのは、これらの指標はどこまでも相対的であるという点だ。視座によって、観測対象がプロットされる位置は変わってくる。水を例に取ってみよう。水は生命という観点では基本的に有価値で無害*1だが、電子機器の観点では回路をショートさせる有害な外乱である。このようにどの視座から物事を分析するか、視座を定める必要がある。むしろ視座を定めなければプロットは困難であろう。

視座の変換による価値の転換

先に挙げた水の例のように、視座の変換によって物事の価値や有害性は揺らぐ。

ここでポスト・イットにまつわるストーリーを引いてこよう(孫引きなので嘘松だったら申し訳ない…)。1969年、3Mの研究者であるスペンサー・シルバーは開発の過程で「良くくっつくけど簡単にはがれる」接着剤ができた。当然、そのようなものは接着という観点では無価値なものである。しかし、同じく3Mの研究者であるアート・フライが「紙にくっつくしおり」としての活用を見出した。これは、分布図で言えば視座(観点)変換によって、無価値が有価値に変換されたということである。

先行事例から見る、工学-芸術における価値転換

この分布図について考えだしたのは、自分が「役に立たない作品を作る」をテーマにしているからであった。その一方で役に立つが前提であるエンジニアリングもやっている、という話だった。そこで、視座として「工学的」と「芸術的」を設けてみよう。これらの視座自体が結構幅がでかい上にふんわりしているので、どうしてもふんわりしていてツッコミどころだらけの議論になることは否めないが、気にせず進める。

 

先行事例を見てみよう。知人の藤原麻里菜氏による「無駄づくり」は、工学的なものを基盤にしながらも役に立たないという実践の大きな例だ。作品数が非常に多いので一概には言えないが、本来有用であった概念を、誇張したり有害性に着目したりオルタナティブすぎる解法を与えたりすることで無用なものとして発明する営みである、という側面があると考えている。

例えば氏の作品に「服をびちゃびちゃにするスプーン」というものがある。

これはスプーンを洗う時に発生する有害性を誇張することで、無用なスプーンを発明していると考えられる。これは有害性を誇張する形状によって、恐らく本来のスプーンとしての有用性も無化されている(食べにくい)。

氏の作品からもう一つ、「オンライン飲み会緊急脱出マシーン」の例を挙げよう。

www.youtube.com

まずは視座を「オンライン飲み会脱出的観点」に設定しよう。そして、オンライン飲み会を脱出するためのマシーンというものは恐らく今までになかったものなので、「オンライン飲み会脱出」として考えうる別の方法を考えてプロットしてみよう。

容易に思いつくのは、イヌや赤ちゃんのノイズを意図的に発生させてそれを言い分に抜ける、回線に意図的に負荷をかける、など。前者はそういうツールが配布されているし、後者もリンクを見つけられないがそういった実践をしている人がいた。

pc.watch.impress.co.jp

これらの実践に対し、「藤原の作品ではローディング中のアイコンを物理的に表示して、使用者は自分で固まる」という方法でもって解決を試みるという、ややアイロニーも含んだものだ。この手法は明らかに先の手法より効率が悪いし、アイコンだって映像フィルターで電子的に表示すれば良い。僅かな差だろうが電力効率だって悪い。

このように工学的に見れば無価値である無駄づくりだが、視座を変えて芸術的観点で見てみる。芸術的観点というのは、個人レベルで見れば価値性というのは大きくばらつきがある。よって個人的な視座で見ることは諦め、社会的なレベルでの視座で見ることにしよう。

一番わかり易いのは、藤原の脱出マシーンがメディア芸術祭エンターテイメント部門審査委員会推薦作品に選出されていることだ。もちろん選出されているから芸術的に価値があると言い切るのは難しいが、それでも一定数の人々に芸術としての価値を認めらていると言うことはできると思われる。

工学的に見て無価値であった脱出マシーンは、芸術的観点への視座変換をすると有価値なものとなるのであった。

現代芸術の特質から見ても、そもそも芸術的に価値のあるものは工学的に見て無価値であることはとても多いと思われる。もうここまで書いた所でめんどくさくなってきてるので具体例は挙げないが…。

自身が「役に立たないもの作品を作る」としてきたのも、上に挙げたような視座変換を意図的に狙うことで、芸術的に価値のあるものを作りたいという気持ちが深層にあったのかもしれない。藤原さんにそういう意図があったかどうかは、分からない。推察するに、無かった可能性が高い思うというか、シャバくなってしまいそうなので、あってほしくない。

閑話休題―有害性と有用性

この分布図に有害性の軸を含めたのは、無用性を極めたいからといって「迷惑系Youtuber」とかにはなりたくないという意図もある。無用性を高める上で、有害性を高めるのは効果的である。もちろんエナジードリンクのように有害でありながら有用とされるのも世の中にはたくさんあるのだが…。

無用でありたいからといって、自分の倫理的な感情として他人に悪影響を与えるようなことはあまりしたくない。ここは単なるお気持ちです。

安定した無用無害を目指して

自身が「役に立たない作品を作る」としてきたのは、ある意味では工学的バックグラウンドを生かして芸術的に価値のある作品を生み出したい、という所から来るものであった。

しかし、それでとどまって良いのだろうか?この視座変換で価値のある芸術を生み出すのは、藤原さんの二番煎じにしかならないのではないだろうか。二番煎じ自体はあまり否定しないが、自分の進みたい道ではないと思う。自分は工学的観点から芸術的観点、あるいはその他の観点への視座変換を行っても安定して「無価値かつ無害」である作品を作るべきではないのだろうか。

これは結構な難問である。大体のことはどこかの観点では役に立ってしまうからである。そもそもこのような無害無価値の安定性を持ってしまうこと自体、芸術性があるような気がしていて、そうなると芸術的に有価値となってしまい、パラドックス的だ。辿り着けそうでたどり着けないからこそ、挑む価値は大いにあると思う。と言ってしまうと有価値になってしまうので、挑む価値は無いと言わざるを得ない。挑む価値も無いんだけど、突き進むしか無い。

弊害-価値分布図の正当性

そもそも価値や弊害などといった指標でもって物事を分析すること自体、わりと問題があるとも思う。特に個人や集団、あるいはそれらを特徴づける属性(民族、性別など)に対してこのような指標を用いてしまうと、差別や分断を容易に生み出してしまう可能性がある。こういった分布図でもって分析する時は、細心の注意を払うか、そもそもそんなしょうもないことをしないほうがいいのかもしれない。

 

(2023-01-24 あんまりにも酷すぎる脱字を修正)

*1:もちろん摂取しすぎたら生命にとって有害なものになるのだが...