おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

~2024/04読書録、「陳腐なEDM」について等

読み始めた本

トーマス・S・マラニー+クリストファー・レア(安原和見訳) - リサーチのはじめかた

学生の時に読みたかった感ある。自分が何したいのか何を作りたいのか最近分からなくなることが多くて、そしたらどっかでこれ芸術を志す若者にも読んでほしいみたいなツイートを見て、買ってみた。誰かにやらされる研究ではなく、「自分中心的研究」のアプローチを教えてくれるようなので楽しみだ。

長沼伸一郎 - 現代経済学の直観的方法

ちょうど今Kindleで買った。著者の前作「物理数学の直観的方法」は読んでて、長いあとがきに感銘は受けていた。で、最近マネーのことに悩むことが多い上に、経済のことを何も知らなすぎるなと思って買ってみた。

序文で、人文科学・自然科学についてかなり勉強してるのに経済に関しては苦手(何なら無知であることが純粋さだと信じてる)な「教養の高い非経済人」が数多く存在してて、とはいえそんなこと言ってられなくなって経済を勉強しようとすると「株で儲ける方法」みたいな、そうじゃないんだがという本ばかり、とはいえアカデミックな入門本を読もうとするとそれはそれで苦しいという人のために書いた、と言っていた。

これは完全に俺のことすぎてブチ上がってしまった(教養があると言っているわけではない)。読みます。

読んでる途中の本

友利昴 - エセ著作権事件簿

いい加減な著作権の解釈を理由に冤罪をふっかけてくる(トレパク冤罪など)のは実はSNS上だけじゃなく民事事件としても結構ある話のようなのだが、そういうケースをたくさん載せてくれている。

面白いは面白いのだが、鬼畜系とかブブカみたいなちょっとキツめの言い回しをしてくるので、そこがちょっと辛い。(そんな機会があるかはともかく)真面目な講演とかでこの本をそのままソースに引っ張ってくるのは少し厳しい

中川克志 - サウンド・アートとは何か: 音と耳に関わる現代アートの四つの系譜

サウンド・アートは時折耳にするが、そう称されているものを分析してみると、筆者曰く実はタイトルにある通り4種類の系譜があって、それらを整理・解説するみたいな本。気合が入っている。

これは本題とは関係ない話になる。私は枝葉末節を全部言いたくなってしまってオタク喋りをしてしまう傾向があるのだが、筆者もそういうタイプなのか、はたまた美学の人たちの傾向なのか、注釈がかなり多い。注釈がものすごく多いと、本にオタク喋りを感じてしまう。(だから悪いということではない。)

で、現代アートの視覚美術偏重主義ともいえる側面、とりわけ音響芸術に対して無理解な側面に怒ってる注釈があって、ブチあがった。

「...現代アートの最先端で好まれる音楽が非常に陳腐なEDMだったりする現場に何度も居合わせてきたが、なぜ、面白い音響芸術の存在を無視して、視覚美術を主たる対象として現代アート全般を語ることができるのか、という疑問を私は抱き続けてきた。...」 (pp.19 注釈13一部抜粋)

筆者の言いたい話とは多分かなり逸れるが、この点はなかなか私としては難しいものがある。確かに自分もそういうシーンを何度かみた事がある。最近だと筆者の言う「陳腐なEDM」に該当する所は「ヒップホップ」とかだろうか。これが本当に無視してて(気づいてなくて)「陳腐なEDM」を好んでるのだったら、まぁやるせない気持ちになるというかそれを通り越して笑うしかないのだが、実は面白い音響芸術が面白くなくて、自覚的にというか、アイロニカルに「陳腐なEDM」を選んでるのであれば、これは結構身につまされる話かもしれない。

これと裏返しの話で、「陳腐なEDM」ではなく「面白い音響芸術」が仮に全体の傾向としてよく選ばれていたとして、でもこれが続いてたら「陳腐なEDM」がきた時にめっちゃブチあがってしまうというのもある。マニアックを極めた先の揺り戻しか。私含め一部界隈では「陳腐なEDM」に相当するもの(めちゃくちゃメジャーなJ-POPとか、商業主義すぎる曲とか)を半ば自覚的に選んで、それでブチあがってる時があると思う。で、それは自覚性が薄ければ薄いほどブチあがる。山本精一が言ってた「天然スカム/養殖スカム」にも似た話だ。

で、より困るのは、そういうアイロニカルに選択しがちなもの(その代表例はワンピースか?)というのは、実はアイロニカルに選択しなくても全然陳腐じゃない、めちゃくちゃ良いものだったりするのである。ただ、養殖スカムが天然スカムにはなれないのと同じで、アイロニカルに選択できてしまう人が天然の良さに気づいて素直な気持ちで提示しようとしても、どこか天然になりにくいのである。

 

自分は子どもの頃、ワンピースを素直な気持ちで面白いと思って見ていた(エネル編あたりで他に興味ができて脱落したが)。大人になってからは、やはりワンピースをアイロニカルな感覚で面白がっている。後に、尾田栄一郎のすごさやワンピース自体の偉大さに気づいて素直な気持ちで見ようとしているものの、やはりアイロニカルな目線は抜けないままなのである。

読み終えた本

千葉雅也 - センスの哲学

読んでる途中は、普段曲を作ったり何かしらの作品作ったりしてる自分にとって身近な話題ということもあり、そうなんだよな確かにそうだ、と納得しながら読めてたのだが、読み終えた途端何を言ってたのかかなり忘れてしまった。

以下ネタバレかも:

続きを読む

作品を説明するのは良くないことか

前回の更新から4ヶ月。ブログ以外には自分の考えている事を長文で述べる機会がないので、たまには更新しないと書き筋が衰えると思い、キーボードを叩き始める。

直近のニュース

valkneeさんに楽曲提供した「OG」が収録されている1stアルバム「Ordinary」が出ました。いいアルバムだと思います。ワンピース見すぎてスケジュールやばくなるの私も分かります。知ってか知らずか2曲目に私の中学時代からの友人であるSEKITOVAがいるのも良いですね。曲もビジュアルに合っててめっちゃ良かったです。ぜひ聴いてください。

linkco.re

ちなみに、リリース同日には宇多田ヒカルのアルバムや、ナオト・インティライミの10thアルバムも出ています⚽️

私個人も、アルバムかEPになるか分かりませんが作り始めてます。今年か来年リリースできたらいいな。今回はフィジカルリリースがメインになる予感です。

本題

最近ツイッターで流れてきた菅実花さんの「美術作品の制作と研究の関係性について─芸術実践論文(美術)の分析を通して」という論文を見た。東京藝術大学社会連携センター紀要 arts+Vol.1(2023/03/31発行)のpdfで読める。

述べられているのは藝大における博士論文の話。絵画や工芸など実技を重視するコースでは、芸術実践(作品制作)をしながら並行して学問的な研究をし、博論に仕上げるということになっているようだ。己の芸術実践を論拠に新しい知見を示すor己の芸術実践の意義を求める形態の論文(芸術実践論文)が通例のようだ。この制作と研究の関連性、その意義を明らかにするのが上論文であるが、その点についてはもうpdfを見てもらうことにしよう。このブログでは論文の論点からはズレた話をする。

さて、理工系で応用寄りの修士を出た私のケースを言うと、社会課題や先行研究群への批判的検討をもとに、新たなシステムを開発し、被験者実験などを行なってデータを取り、データを元に言える新しい知見(システムそのものの有用性・特性、実験を通じて分かったヒトの特性)を述べるというのが修士研究の大まかな流れだ。あくまでも論文がそういう流れというだけで、実態はシステムを試作してみてから先行研究をまた収集して提案システムの方向性を修正して…と行ったり来たりする部分もあるのだが。なんにせよこの修論のフローは学士でも博士でも分量が違うだけで大体が同じだと思われる。純粋数学とか理論物理とかは若干異なる部分があると思う。

この「システムの開発」の部分が作品制作に相当するように見えるかもしれないが、芸術実践の難しいところは、論文を通した言語化によって作品自体に何かしらの影響があることだろう。上論文内でもデメリットとして「論文を通して作品や制作を言語化した結果、作品が以前のものと比べて観念的で説明的になってしまう」というものが挙げられている*1。理工系の私のケースでは、システムに何らかの影響があろうが別にいいというか、システムの良し悪しは論文の結論と大方直結するが、芸術の場合はそうはいかないだろう。作品を論拠に新知見を示すパターンだろうが、作品の意義を求めるパターンだろうが、論文の結論が良いからといって芸術作品としても良いものだとはなりにくいと思われる(逆も然り)。後者のパターンは、どうやら作品発表と論文の提出の締め切りが同時期であるというスケジュールの問題で、鑑賞者の反応や批評を論拠にできない(=主観・予測で作品の見え方について書かざるを得ない)ということも強く影響しそうだが……。

 

話を逸らすが、学問的な問題に限らず、作品を言語で説明することについてをテーマに少し書きたい。

音楽のような聴覚作品にせよ絵画・彫刻などの視覚作品にせよ、作品内容について文章で説明するという瞬間がある。批評や感想文などのような他者からの説明もあれば、ステートメントやセルフライナーノーツのように作者本人が説明することもある。

ただ、作品について言語化する事に否定的な見方というものがどうもよくあるようだ。上論文でも次のようなことが語られている*2

美術大学の実技系専攻の学生の多くは、作品制作等の実技に比べて、文章を書くことを苦手としている。専攻の課題のほとんどは実技による成果のみが求められ、提出の際に言葉によるプレゼンテーションや解説文を付け足すと「作品がものとして語ることができていない。クオリティが低いことの証明になっている」と批判されることも多い。そのため、博士課程で芸術実践論文に取り組む際にも、「言葉では伝わらないから作品を制作しているのに」、「文章で説明できる作品は良いものではない」などという免罪符を用いる傾向にある。

これらに近い言説は、美大に限らず、私の周りの、アカデミズムとは関係のない所で音楽などを制作・表現をしている人たちから聞くこともある。

先にはっきり言っておくが、私のスタンスは基本的に「作者も言葉で説明する努力はして良い」というものである。その理由とともに、上の3つ言説

  • 「文章で説明できる作品は良いものではない」
  • 「言葉では伝わらないから作品を制作しているのに」
  • 「作品がものとして語ることができていない。クオリティが低いことの証明になっている」

についてサラッと語ろう。

「文章で説明できる作品は良いものではない」は、これを作家側が言うのであればハッキリ言って誤謬というか、順序が間違っていると思う。「文章で説明できない良い作品」というのは、出来上がった作品について、努力を尽くして説明を試みても、伝わりやすい文章化が困難だから作品が良く見えるのだと私は思う。コンセプトが良いことを重視する西洋現代アート的な視座ならば、文章で説明できる内容を作品で表現することの意義は、確かに薄いかもしれない。ただこの誤謬の言説は「作品が悪かったら嫌だから文章で説明しない」と言っているに等しいのではないか。判断から逃げている。悪い作品か良い作品かの決定を先送りにしているだけだと思う。説明はできなくても説明する努力はできる。もし決定されたくないのであれば、主語のでかい変な免罪符を使わずに堂々とそう言えばいいと思う。(いや、それはそれでダサく見えてしまうかもしれないが……)

「文章で説明できる作品は良いものではない」を、作家ではなく鑑賞者の目線から言ったのが「作品がものとして語ることができていない。クオリティが低いことの証明になっている」ではないか。実際、説明が雄弁だが作品の内容が伴ってないことは往々にしてあり、言われたら悔しいかもしれないが、判断から逃げなかった分、私はものとして語ることができなかった作品も判断から逃げた作品よりは評価したい(何様だ?)。

「言葉では伝わらないから作品を制作しているのに」、けど伝える努力はしてみていいと思う。作品内の言葉で伝わらないものというのは、言語で説明するには複雑すぎる概念と、視聴覚でのみ感じ取ることができる特有のリズムというのがあると思う*3。特に後者にあっては、それを言葉で伝えようとして文を書いたところで、どうせ文から読み取れるもの=作品の内容というふうに完全に一致することはないと思う。言葉で伝えるのが苦手なら尚更だ。むしろ、文章の内容をとっかかりにして作品の内容をより理解することができる可能性はないか?ステートメントというのは、そのためにもあるんじゃないのだろうか。逆に、作品が文章の伝わらなさを補填するものであってもいいのではないか(多分、多くの作家はそれを嫌がる気もするが)。

 

あくまで努力していいというだけで、敢えて出さない選択肢とか、変な伝え方をする選択肢はあって良いと思う。下手な説明をすることによって、作者としてなんとなく伝わってほしい感覚の伝達に歪みがかかってしまう(だからしない)ケースや、作者のキャラクターと作品が深く繋がっており説明行為によってキャラクターが損なわれる(よって作品の良さも損なわれる)ケースというのもある。鑑賞者の感受性にフルベットしたいので説明を省くケースもあるだろう。

感じ方は人それぞれとはいえ、作家・鑑賞者問わず影響力の大きい説明があると、良くも悪くもバイアスがかかって見方が固定されがちだ。「あ、これあの人の言ってた感想の影響受けすぎな感想だな」と思わされたことは私もあるし、私もそういうこと言う時があるだろう。

ただ、そんな意図があろうとなかろうと、説明文を一度書いてみてからそういう選択肢を取るのと、文を書く前から免罪符的にそういう選択肢を取るのとでは質が違う。文を書くプロセスもないままに作品を作って、結局実は文で全部説明できちゃうような作品だったら、どう思うか。

 

さて、こういうことを言っているが、最近の自分は説明をしすぎて悪くなってるパターンの可能性がある。うるさい人の作品を見ても、うるささがチラついてブチアガりにくい、という思いも割と理解できる。沈黙は金というやつか。でもこれは黙ってたほうがいい時もあり、その時を自分は見極めるべきだという話で、黙ってることがずっといいということもないと思う。

*1:pp.17 表9

*2:pp.9

*3:千葉雅也のセンスの哲学を最近読んでたのでリズムという言い方をした。読んでください

2023のピアノマン振り返り

振り返る時期なので、この12ヶ月を振り返る。色々大変な年でしたが、それでも振り返ることは、大切です。今回はプライベートの話は少々に、やった仕事・リリースの話メインです(覚えてないので)。

1月

私作曲の、PINKBLESS『NEVER MIND』がリリース。

big-up.style

最近はめっきりガバを作っていなかったので、ガバでお願いしたいというオーダーに答えられるか不安だったが、わりとなんとかなった。未だに無意識のうちにガバを聴いてることはある。

 

ずっと未解決状態だった、自作ROMでのPICOのペン座標取得に成功。思わぬ所に落とし穴があった。結局これ以降PICO用VJソフトを作る時間がとれず放置している。

 

DJイオさんの訃報。度々お世話になっていたし、かなりショッキング。イオさん主催のいいともレコーズのバトンは僕の所で止まっているので、早くやらないと……。

謎にオリコンニュースとかで取り上げられてたのもよくわからなかったし、これに反ワクチン主義の人々がワクチンのせいだなーと群がっていたのが大変苦しい気持ちになった。ワクチンの肯定否定どうこうじゃなくて、自分の主張に人の死を利用するのはとても頂けない。

 

2月

ピアノ男ビデオズを更新。

www.youtube.com

後に述べるコンペ応募のためだったか?ちょっと覚えてない。最近はピアノ男ビデオズの転載元の動画よりも転載を作ることのほうが多くなっている。時代とともに違法アップロードの違法アップロード的な表象(と言っていいのか?)も変わってくるわけで、これを続けると違法アップロードスタイル・アーカイブみたいなものができるのかなと思いつつ、そもそもあんまり違法視聴しなくなってきたというか、正規視聴の手段がかなり整ってきてるので、このやり方はそろそろ難しい時期に入るかも。

3月

ピアノ男ビデオズ報告書をリリース。ピアノ男ビデオズの仕組みについて調査報告書の体であけすけに記述したもの。これを出すのが果たして良かったのかはあんまりよく分からない。出さなくてよかったかもしれない。

あと水曜日のダウンタウンがこの月に、水曜日のダウンタウンをピクチャーインピクチャー形式の違法アップロード動画みたいなフォーマットで放送することをやっていた。もうこれで完全にクリシェです。

4月

岡崎ひかりのラウンジで昨年の拙作「FAKESAX」をテーマとしたイベントをありがたいことに開催して頂く。それもエイプリルフールの日に。

本当に得難い体験だった。無くなるのが心の底から残念だと思えるスペース。この後また別のイベントでひかりのラウンジに行くことがあり、ついでに観光もしたのだが、やっぱり岡崎というか、愛知は時空の流れが違うと思う。祖母が愛知に住んでいるので子供の頃は度々行くことがあったが、その時は何も違和感なく受け入れていた。しかし、物心がついてから行く愛知は一味違う。素晴らしい。岡崎のシビコで00年代初期のデジモンアヤンキーのワッペンが何の衒いもなく売ってたのがヤバかった。

5月

何も覚えてないしリリースもない

6月

アメトーーク「動画編集やってる芸人」の、終盤に出演芸人が15秒のダイジェスト動画を各々が編集して作るという企画で、フワちゃんの動画の音声をお手伝い。毎度ありがとうございます。こんなよく分からん人にずっと仕事を振ってくれてる芸能人はフワさんぐらいです。

 

横浜に引っ越し。10年住んだ京都は何もしないままアッサリと出てしまったので、また何かできることを祈る……。

7月

第1回BUG ART AWARDの一次審査に通過、セミファイナリストとなった。

bug.art

一次審査は書類審査で、自分の作品のビデオとか、ファイナリストに残った場合の展示プランとかを提出する感じ。

胡散臭いコンペもまぁ多そうな世の中、このコンペの規模感も(1_WALLが前身とはいえ)いまいち計れてなかったのだが、公開情報によると応募総数は415、うちセミファイナリストが20名なので、わりと驚いた。私はこういう書類審査にだけは何故か強い傾向がある。二次審査では、真っ当な理由で通過に至らなかったが……。

内情はまるで知らないが、審査プロセスのレポートがちゃんと公開されていたし、各選考員の審査コメントも審査後にちゃんとフィードバックくれた。最初はグランプリ受賞者には個展開催費300万のみの支給であったが、ツイッターで誰かがアーティストフィーが支給されないことについての指摘をしていたことを受けてか、支給されることになったようだ。といった所で、真摯なコンペであるように私の目には映った。

8月

KATO MASSACREに出演。

心の底から楽しくパフォーマンスできたというか、満足いった回だったと思う。忘れていたものを思い出せた。

 

映画『ミトヤマネ』の劇伴をvalkneeさんディレクションのもとで制作。プライムビデオとかでレンタル始まってるらしいので是非。

mitoyamane.jp

劇伴は初めてだったのでいい経験になった。実際に映画館で見てきたが、エンドロールに「ピアノ男」と出るとなんかやっぱおもろい。

この作品もそうだし『君たちはどう生きるか』とかもそうだが、今年は商業作品で商業作品的なあり方から反れた道を行く作品が多くリリースされていたような気がする。自分がそういうものを無意識のうちに注目してしまっているだけかもしれない。

9月

RYOKO2000でアルバム「Unknown Things」をリリース。

linkco.re

のんびりやっていたら前作から2年も経ってしまった。なかなかお互い体調や仕事のこともあって、リリースパーティはおろか通常の出演すらできてない状態だが、なんとか機会を見つけてやりたい。

10月

あんま貼るほどのものでもないが個人的に今年はこういうノリがきていた。のでDJMIXを作った。

soundcloud.com

アジアと一括りにするのも雑すぎるかと思いつつ、事実90〜00年代のユーロダンス・トランスはアジア圏の(というかアジアに限らないと思うが)多くの国のダンスミュージックに影響をもたらしていて、独自の解釈というか、消化のされ方をしている。

自分はFUNKOTなどのアジア圏のダンスミュージックが好きなのだが、好きな理由の大部分は、欧米の様式を取り入れるんだけどそっくりそのまま欧米の様式にはならない所が好きなんだと思う。それは猿真似によって産まれる薄っぺらさの時もあれば、ウェスタンポイズンには毒されないという矜持、混ぜもので新しいモノを作ろうという意志の時もある。どちらも尊い。これは各国のマイアヒカバーなどにも顕著に表れている。マイアヒに注目するのはそういう所です。マイアヒは世界の民俗資料なんです。

11月

音楽ナタリーさんから話を頂き、割れ音源に関する記事をリリース。

natalie.mu

ナードコアや音MADに始まり、ずっとぼんやり「サンプリング」「割れ」について意識があったのだが、いよいよライフワークっぽい感じになってきた。

書いてるうちに自分の中で整理がついてきたというか、点と点が繋がり始めた感じがあったので良かった。けど当分はあんまりこのテーマ書きたくないな……。結局話をもらったら書いちゃうんでしょうけど……。

12月

この月がなんだかんだ一番忙しかったかもしれない。

 

山中雪乃個展のオープニングパーティにPP-MAXMAN名義でDJ出演。

これを期にやっとDJができる感じになってきた。PP-MAXMANはアジア圏を中心に各国のダンスミュージックを再編纂・再解釈するスタイルのDJ名義です。今後はDJもやっていきたい。

 

AMCJに出演、音楽ナタリーで書いたようなトピックを中心に講演。人前でプレゼンテーションするのがものすごく久々というか、何なら他人と喋る機会も近年はすごく少なくなってきてるので、あんまり上手く話せなかった……。内容自体はナタリー時点より新しい視点も含んでいるつもりなので、また何かのタイミングで発表できればと。

 

熱海にて、しぜすべ3に出演。

本来RYOKO2000での出演だったが、都合で叶わず私単騎での出演。レジャー感覚です。日の出というものを久々に見た。

 

ミゲルさんのGOODNIGHT周年パーティに出演。

これが今年の最初で最後の、2人揃ってのRYOKO2000出演となってしまった。来年こそ頑張りたい。イベント自体は、今まで体験したことない新鮮で不思議な空間だった。

 

まとめ

美術、執筆、講演……ちょっと風呂敷広げすぎてしまった感はあった。音楽活動もそれなりにやっていた気はするけど、振り返ってみると去年と変わらず控えめに映る。

色々手を出したが結局それらは今ずっとあんまりやる気がなくなってしまっている。でも音楽だけは、一瞬やりたくねーってタイミングがあれど1ヶ月もすればDAWを触りたくなっているので、結局音楽は作りたいんだということが分かって良かった。

一方で、情報過多・加速する消費速度、生成AIの発展、広告に依存する収益モデルやサブスクの問題点、Twitterの崩壊、戦争など世界情勢悪化……これまでの音楽制作への態度を改めなければいけないと思わされる、時代の転換期にいると強く感じさせられる一年。

もはや何もわからん。何もよくわからんまま全てが過ぎ去っていった一年でもあった。来年はよく分かることを祈る。

来年の抱負

曲を色々出す、年収を上げる、親知らずを処理する、雰囲気に流されず突き進む

 

「割れ音源」は完全に悪なのか?の補足と所感

まずは記事をご覧いただきありがとうございました。(未見の方は以下よりどうぞ)

natalie.mu

 

ナタリーさまからのリリースということで、この話題を衆目に触れる場ですると誰が書こうがそれなりに反響があることは容易に想像できたのですが、概ね予想通りそれなりの反響がありました。

緩めに設定して頂けましたが、期日や文量の設定がある中で書くと、どうしても言葉足らずな部分は出るし、書き足らない所もあります。なので、ここで幾らかの補足説明をしようと思います。

この記事を書いた動機

まず、再三言っておきたいのは、私は割れ行為を手放しに肯定したくはないということです。私も折角作ったものをタダで消費され続けたら流石にムカつきますし、生活に支障が出るから作ることをやめるでしょう。無断サンプリングにしても、そういったものを制作・受容しておきながらなんですが、こういうの嫌な人だったら申し訳ないなぁと罪悪感が頭をよぎる瞬間は年々多くなっています。

ただ記事で述べたように、単なる食い逃げや万引きとは事情が違い、オリジナルの作品の広がりに貢献したり、その作品の属する文化圏の発展に繋がったりするケースも実際ある。法的にも、権利者が事後的に不問にする余地はある。勝手にサンプリングされるのが嫌じゃない人もわりといる。という所が事を難しくしているように思います。

あくまで私見ですが、割れ・無断サンプリングは犯罪だし倫理的にもすべきでないとする厳格な立場と、そういうカルチャーだから大目に見るべきという立場の二つが大きく分けてあると思います。私の記事では、もしかしたら力不足で後者に近い意見のように映ってしまったかもしれませんが、そうではなく、この2つの対立から抜け出せる道を見つけたいと思うわけです。

しかし、割れ・無断サンプリングを巡っては、そのアングラな特性も相まって*1、どういう背景や経緯があるのかが表面化しにくかったり、誤解があったりするように思います。

法的な側面を解説する記事は多くあるのですが、そこから漏れる側面についてはあまりまとまっていない気がします。なので、自分が知る事や客観的と思える資料をもとに、法的見地から漏れる部分をカバーして、様々な議論のたたき台にできないかと思ったわけです。

なので、何か意見があれば、個人ブログなどでいいので記事を書いてみてもらえると、こちらとしても書いた甲斐があります。Twitter(X)はそろそろ死ぬと思うので、残りやすい媒体がいいですね。

真面目な人が割を食うグレーゾーン

記事を書いた動機にも繋がる話なのですが、こういう問題のグレーゾーンというのは救済的な側面もあるのですが、一方で真面目な人ほど割を食うものでもあるんじゃないかと思います。

たまにDTM初心者などの書込みで「◯◯のリミックスをしてみたのですが、soundcloudなどに公開していいものなのか分かりません」とか「著作権的に何がOKで何がOUTかわからない」とかいう質問を見ることがあります。現実問題、soundcloudなどに無料で公開した程度で訴訟してくる人はほぼいなく、権利者の申し立てで削除されるのが関の山だし、世界の結構な人数はそんな事気にせずに無許可リミックスをアップしてます。怒られたら素直に取り下げる、という運用の人は多いでしょう(サブスクリリースなどお金が絡むと事情は異なると思います)。だからといって、やって良いと大手を振って答えるわけにはいかない。なので「許可を得る必要があります」と答えることになるわけですが、tracklibなどのようにクリアランスが容易にできるサービスも出てきた時代ではあるものの、まだ全ての楽曲がそういうサービスを経由して許可を取れるわけでもないし、費用もかかります。

ここでひとつ、私自身の例を述べると、好きな某芸能人の声を無断でサンプリングして楽曲を制作し、ツイッターにアップロードしたら、たまたまそれを見た本人から公式に仕事を頂けるようになったことがありました。私に限らずこういうやり方で売れていった人って割といると思います。(ただ、それに味をしめて打算的にやり始めだすのはイケてないと私は思いますが)

真面目な人は許可取りの困難さに萎縮するか許可取りに奔走するわけですが、私はそういうのをすっ飛ばして新しい仕事に繋げることが出来てしまったわけです。こういったアンバランスさを放置しておくのは健全と思えない、けど創作の自由度とか発展の可能性を下げることもしたくないので議論を喚起したかったのです。

国ごとの考え方の違い

オリジナルの流用については、国ごとに多少考え方の傾向が異なる可能性もあると思っています。これはかなりトリッキーなケースかもしれませんが、先日FL Studioを割ることについて議論するインドネシア人の動画を見ていた時に、次のようなコメントがついているのを見かけました。

自分のものではないものを売ってはいけない、というハディースがあるから割れソフトを売るのはハラームだが、個人的に使うのは余裕がない場合は問題ない。特にそのソフトがイスラムの勉強に関係ない場合は。(筆者訳)

ハディースとはイスラム教の預言者ムハンマドの言行録のことで、ハラームはイスラム教の教えで禁じられていることです。私はイスラム法学者ではないので、これがイスラム的に正しいのか、信者的にマジョリティな考え方なのかは分かりかねますが、検討に値する意見だと思います。

念のため、ちゃんと購入しようと思います、買って使ってます、と意思表示をしているコメントも多数あるということは述べておきます。

法律とサンプリング

法的な側面を見てみると、特にサンプリングについては国によって検討の進み具合が異なりそうです。私は法律の専門家ではないので、法の専門の方が書かれた記事から解釈して見ていくことにします。正確さに欠ける部分があると思うので、あまり当てにしないでください。

サンプリングにおける著作権の問題を語る時、著作権そのものに加えて原盤権と呼ばれるものがあります。レコード製作者(レコードに固定されている音を最初に固定した者)の権利のことです。オリジナル音源の音の一部をそのまま流用するサンプリングをする場合、その楽曲の著作権を持つ人だけでなく、原盤権を持つ人からも許諾を得るのが通例となっています。

よくある俗説として「〜秒以内のサンプリングなら問題ない」というものがありますが、法的にも解釈が揺れ動く部分のようで、次の中川隆太郎弁護士の記事では、原盤権侵害のルールについて日本・アメリカ・EUでの比較がなされています。

www.kottolaw.com

この件で有名らしいのが2006年アメリカのBridgeport事件の判決です。アメリカではレコード原盤を保護する権利は、著作隣接権ではなく著作権のようですが、ここでは元の音源を識別できようができなかろうが(どれほど短かろうが)著作権侵害であるとする判決となったようです。

しかし2016年のVMG Salsoul事件判決では、Bridgeport事件判決の解釈を誤りであるとし、de minimis 法理と呼ばれる、形式的には侵害行為でも、裁判で解決するレベルじゃない些細なものは気にしないことにする法理の適用が認められ、侵害でないとの判決となりました。

EUでは2019年のPelham事件判決で、「サンプリングした部分が非常に短いものであったとしても、原則として複製権侵害の対象となる」としつつ、例外として元の音源を識別できないように変更されたものを使うことは複製権侵害ではない(複製でない)とされました。

日本では、未だ裁判例が見つからない(2019時点)ようですが、学説では2016のアメリカやEU同様、識別できないものは侵害でないとする解釈が有力だと中川弁護士は述べています。

正直なところ、実務の面でも分からないレベルまでエフェクトをかけたりカットアップしたりしてしまえば、黙っていたら誰も分かりようがないし、パクられた本人ですら気づけないと思います。法律の話を抜きにすると、特にキックやスネアのようなドラムサンプルなんかは、EQのかけ具合とか歪ませ方とかに作家の努力や属人性が現れてくるかもしれませんが、その作家ですら誰かが作ったシンセやドラムを元に作っているのがほとんどなわけで、それと何が違うのかという気持ちにはなります。なので直近の判例は個人的には腑に落ちるものと考えます。

 

他のトピックとしては、長くなってしまうので今回は深入りしませんが、アメリカ法にはフェアユースと呼ばれる例外規定があります。2 Live CrewのPretty Womanという楽曲は、Roy OrbisonのOh, Pretty Womanをサンプリングし、2 Live Crew的な痛烈さを持った歌詞で歌ったパロディソングですが、オリジナルの権利者側が著作権侵害であると訴え*2、この楽曲はオリジナル曲のフェアユースであるかどうか、そもそも商業的なパロディはフェアユースとなり得るかが争われました。

www.youtube.com

一審ではフェアユースを認められ、控訴裁判所ではフェアユースと認めず差し戻し、連邦最高裁では控訴裁の判決を破棄差戻し。元の表現を新しい表現・メッセージで改変し、別の意味を与える「transformative use」という使い方なら商業的であれどもフェアユースとなり得る可能性を示したようです。

日本では10年以上前から議論されてはいるものの未だフェアユース規定は導入されておらず。対象に対して批評的なサンプリングの使い方をしている作品、パロディ作品の取り扱いについては法の動向を注視し続ける必要がありそうですね。

おわりに

この問題は私が書こうが誰が書こうが絶対厳しいコメントが付いたりそれなりに燃えたりするだろうということは容易に想像できていました。申し訳ないけど小心者すぎて引リツやヤフコメはほぼ見れてません。

でも、腰を据えて話はしたいので、何か機会ありましたらお話ししましょう。ブログ記事とかも目についたら読みに行きます。特に法律の面、経済の面は極めて素人なので補足などがあると嬉しいです。

*1:だからコッソリやってたのをわざわざ掘り起こして衆目に晒すのを嫌がる人もいると思ったので躊躇ったのですが、でも、もう時代の変わり目じゃないでしょうか

*2:2Live Crewは事前に権利者にパロディをすること・一定の使用料を支払うつもりであることを伝えていたが、返答を得られる前にリリース。許諾できない旨が伝えられたのはリリース後であった。

サンプリングを再考する part.II

先輩たちのサンプリングに対する意識

part2では、自分がこれまで注目してきた先輩方のサンプリングに対する意識・態度について、あたれる文献から比較を試みます。今回、私が射程とするのは以下の分野の諸先輩です。

ナードコアテクノ・ガバ・現代美術(シミュレーショニズム)

part1では、ナードコアテクノを「好きすぎるものへの愛情をテクノミュージックを通して見せつけたい気持ちで作られた音楽」であるとする解釈を紹介しました。ここで注目するのは、「愛情」です。もう少し広くとって、「サンプリング対象への想い」としましょうか。上の三つの間というか、サンプリングベースで活動しているアーティスト達の間で、サンプリング対象への向き合い方に差異が強く現れると考えます。以下では、各分野の特定の先輩方について取り上げて説明をしていきますが、その先輩方の見解が各分野の総意というわけではないことには注意してください。

ナードコアの愛

ナードコアは、一般には「アニメ・ゲーム・映画・テレビなどの音源をサンプリングしたテクノ」として伝わっていることが多いと考えます。そのような意識のみでナードコアを作っている人も多くいると考えます。しかし先に紹介した定義のように、ただただ無神経に、あるいは何らかの悪意を持ってサンプリングするのではなく、サンプリング元への愛情表現、ないしは好きなものをさらにカッコよく見せたいという態度を持った上で制作をするという意識もこの分野の根底には流れていたと考えます。もう10年以上前(!)の記事ではありますが、次の記事にその様子が垣間見られます。

underdefinition.hatenadiary.jp

政所さん(現・プロハンバーガー)はレオパルドンという名義で初期ナードコアシーンを牽引していた一人で、私がナードコアテクノやインドネシアにハマっていったきっかけの一人でもあります。

レオパルドン吉幾三や香港映画、特撮などをサンプリングする作風でしたが、彼が運営していた「レオパルドン秘密基地」というサイトでも香港映画に関するコラムが多々見られ、その愛は確かだと考えます。

レオパルドン以外のアーティストを見ても、全日*1志村けんやゲームが好きだと思うし、DATゾイドさん*2プログレが好きだと思うし、ディスクさんはDJケオリが好きだと思います(?)。具体的にソースを出せと言われると困り果てるのですが、そういう印象があります。

しかし記事でもあるようにこれがナードコアの総意ではなく、例えば「犬死に」*3は別の見解があると考えます。他に、ツイートが出てこないので不正確ですが、BUBBLE-Bさんは好きなものをサンプリングという方法へのアンチテーゼで、ネタモノテクノ名義ではどうでもいいものをサンプリングするというのをやった、というようなことを言っていた気がします(違ったらすみません)。ナードコアという括り自体、各地で同時発生的に出現していたものがクイック・ジャパンという雑誌によって「ナードコア」という括りになった、という流れのようなので、再三言うように異なる問題意識を持ってやっていた方はいます。

ちなみに私はテレビが好きなので、テレビ番組やテレビタレントのサンプリングが比較的多かったように思います。でも、好きなものをサンプリングするという意識よりは、誰がこんなのをサンプリングするんだ?というものをサンプリングする、という意識のほうが強かったかもしれません。「誰がこんなのを」というニッチさというか、メインストリームへのカウンター感も自分が好んできたナードコアの特徴かもしれません*4

サンプリングにはドラムぐらいの意味しかない、ガバ

今度はガバに目を向けてみます。そもそもナードコアテクノにはガバをベースにした音楽が多々見受けられるし、「ナードコア」という名前からアニメガバ=ナードコアという誤解が産まれることもあるぐらいなので、これも分かりやすく境界線を引くことは困難ではあると思います。

ここでは、Hammer Brosの見解を紹介しましょう。Hammber Brosは日本で1994年から活動している、Big the Budo(Shit da Budo, MC Shit B)・Tatsujin Bomb・Tokyuhead(Librah、DJ Lib)からなる3人組のガバユニットで、高橋名人はだしのゲンのサンプリングがよく知られています。詳細は以下の記事などが詳しいです。

note.com

彼らはどのような意識でサンプリングしていたのか。ここで、Quick Japan Vol.12でのHAMMBER BROSへのインタビューを引用します。

TOKYU: 曲じゃない部分で、サンプルネタそのもので「ここ、笑ってください」「ここ、笑うところです」っていうのは"ハンマーブロス"では無いなあ。

 

BUDO: (自分たちのは)笑えないサンプリングばかり。これは"ナセンブルテン"がやってるんですけど、なんの脈略も無くテレビのショー司会者が「また来週」って言って客席が拍手して曲が終ったり、そういうのって意味不明ですよ。本人達が面白いと思ってやっているのかさえ、わからない。全員には絶対にわからないという使い方。見下してるわけでもないし、狂ってるわけでもない。これは彼らから学んだつもりなんですけど、笑いのネタにとか、パロディとか、狂ってるように見せるためとか、そういうサンプリングの使い方って、自分の中ではもう終わってる。もうちょっと違う使い方があるんじゃないかなと思うんですけど。

 

(中略)

 

―"ハンマーブロス"の、サンプリング対象への思い入れとか距離感っていうのは、どんな感じなんですか?

 

TOKYU: なんていうか、サンプリングしたものには、ドラムぐらいの意味しかないっていう感じかなあ。

Quick Japan Vol.12(1997) 太田出版 pp156.より引用

ナードコアがサンプル対象への愛を示しているのとは打って変わって、Hammer Brosはサンプル対象の文脈や愛情を無効にするかのような態度です。ナードコアは愛があるんだろうなと分かるし、パロディはどういう意図があってやったのかが見えますが、Hammer Brosの場合は愛や意図があるかないかとかではなく、分かりません。見えないようにしています。「ドラムぐらいの意味しかない」というのがそれを明瞭に示しているような気がします。

1995 GENPRODUCTIONなるはだしのゲン原作者公認のページがかつてメンバーによって運営されていたように、高橋名人はだしのゲンに対する何らかの関心はあるんだろうと思いつつも、それが好きなのかよく分からなくなるサンプリングセンスでかっこいいと私は感じていました。

私がメンバーの一人であるリョウコ2000は2020年に「Parasitic Dominator」というガバのEPをリリースしていますが、私自身はこの制作において上述の態度に強く影響を受けておりました。

以上はガバというよりHammer Brosの態度でしたが、例えば以下のシャープネルさんのインタビューにあるように、サンプリング元に対してナードコアのように愛があるかはあまり見えてこない(本人にインタビューすればあるのかもしれない)、これを入れるとなんか良いから入れるんだみたいなサンプリングというのは、他のガバでもよくあったように思います。

nlab.itmedia.co.jp

シミュレーショニズム

音楽から打って変わって、今度は現代美術に話を移します。以下の多くは椹木野衣 - 増補 シミュレーショニズム ハウスミュージックと盗用芸術(筑摩書房,
2001)や1990年代の美術手帖などを参考にしています。私自身が1994年産まれで、美術に強く関心を持ち始めたのもここ3〜4年ぐらいの話なので、電子機器や紙面の情報のみでしか知らないのがなんとも悔しいところではありますが……。

シミュレーショニズムは1980年代頃よりニューヨークを中心に流行した芸術動向です。盗用芸術と言うように、ルールに則った引用などではなく、勝手に過去の著名な作品の全体や要素をぶんどって全く別の文脈に接続し、自身の作品として提出する「アプロプリエーション」といった方法論でもって作品が制作される傾向がありました。

個別の作家をいくらか挙げると、

リチャード・プリンスは広告や雑誌などの写真を再撮影し、拡大したりトリミングしたりした作品を発表しています。写真の広告としてのメッセージ性は排除され、写真というメディア自体の性質や歴史、あるいはオリジナリティという概念に言及する形になっています。

シェリー・レヴィーンは男性優位の業界に待ったをかけるフェミニズム的観点から、過去の男性写真家による写真作品をそのまま撮影し、自身の作品として発表しています。

マイク・ビドロは、現代美術においてあらゆることがやり尽くされすぎていて、本当にオリジナリティのあるものなど思いつけやしないというペシミズム的な態度から、過去の名画をそっくりそのまま模写して自分の作品として発表をしています。(そしてそれが却ってオリジナリティとなっている)

他にもシンディ・シャーマンやら森村泰昌やらジェフ・クーンズやら挙げだすと切りがないのでこれ以上は書籍を参照してほしいのですが、この動向の背景には、複製技術が極度に発展しまくった消費社会への批評、美術芸術の権威的な側面に対するマイノリティからの抵抗、オリジナリティや進歩史観の問い直し・解体、などがあったようです。

つまりどの作家もナードコアのようなサンプリング対象への愛みたいなものはない、むしろ憎い寄りなのかもしれない。加えてHammer Brosのガバのように、サンプリングした理由を説明できないようなものかと言われると、むしろコンセプト・意図はかなりある。現代美術は歴史的経緯から基本的にコンセプト重視で(その風潮を批判する向きもいくつかありつつ)、ナードコアのようにただただ好きだからモチーフにした、だけでは現代アートとしては評価されない傾向があると考えます。

シミュレーショニズムのずるいというかややこしいのは、進歩史観、新しさ信仰を否定して、過去の産物を掘り出してゾンビのように繰り返すわけですが、それが却って新しさになってしまっているし、過去の産物を別の文脈にくっつけて再構成する方法なんかも結局新しさを提示しているような気がする所だと私は思います。そして、そのシミュレーショニズムの感覚に従ってやった所で、それは結局シミュレーショニズムの二番煎じみたくなってしまう。という話をして行きたいのですが、長くなるので次回以降に回します。

まとめ

ナードコア・ガバ・シミュレーショニズムの三分野におけるサンプリングという方法に対する態度をまとめます。

ナードコア……サンプリング対象に対する愛がある。愛を発露するためのサンプリング

シミュレーショニズム……サンプリング対象に愛はない。別の意図がある。

ガバ……サンプリング対象に愛があるかどうか分からない。意図も見えない。

 

こうしてみるとナードコアとシミュレーショニズムなんかは、サンプリングという点で共通してるように見えても、制作に対するモチベーションが真逆です。

付け加えると、音MADなんかは、話題になった面白ニュースや面白人物、アニメと流行ってる曲を組み合わせて作るというものが多く、それはナードコアのような愛がない上にシミュレーショニズムのような意図もない、ガバのように愛があるかどうか分からない訳でもなくただ愛がない、というものも多く見られます。(もちろんドナルド教信者のような方々のように、愛ゆえのものも多くあると思います)

愛があるとかないとか意図があるとかないとかで良し悪しを論ずるつもりはなく、そういう差があると言える事のみをここでは示したいのです。

私はこれまでナードコアテクノを基盤に活動してきましたが、振り返るとナードコアが好きというよりは「サンプリング」という方法論、もっと言うと「無許可でパクる手法」自体に関心があって、だから音MADもナードコアもガバもシミュレーショニズムも同等に興味を持ったんだと思います。ただ、自分は思春期にナードコアで育ったため、ナードコア的な方法論をとってきたし、一時期は若気の至りでナードコア原理主義みたいな状態でした(本当に詫びて回りたい)。

さて、ここまでである意味音楽におけるサンプリングの大先輩と言えるヒップホップやハウスにはまだ触れてきませんでした。これについては、次回「サンプリングの暴力性とサンプリング・ネイティブ世代の葛藤」というテーマで触れていきたいと思います。

 

次回に続く

*1:http://chigai.pico2culture.jp/article/182747272.html

*2:https://gorill.booth.pm/

*3:西村物産主催のイベント及び、周辺界隈を指す。レオパルドンなどが主に出演していたパーティ・SPEEDKINGへの反対勢力と取れるような記録が残されている。

*4:今は大きなメインストリームみたいなのがあんまりないので話も変わってきますね

サンプリングを再考する part.I

サンプリング、ナードコアテクノと私

私が人生で初めてコンピュータで作った曲は、ダイヤルアップ接続音のmp3ファイルをカットアップした簡素なテクノだったと記憶しています。楽譜を書いたり、MIDIを打ち込んだりと当時から様々な作曲方法があるなかで、サンプリング・カットアップでもって活動を開始したのは、それまで制作に励んでいた「音MAD」の影響が多分にあると考えます。決して「サンプリング」という手段の性質に自覚的な状態で、俯瞰した状態で始めたわけではなく、ただただ中学生の直観で道具を選んだ、あるいは環境に選ばされた結果だったと回想します。

そこから私はおよそ10年にわたり、日本の「ナードコアテクノ」に影響を受けた制作やライブ活動を行ってきました。私が指し示す「ナードコアテクノ」については、以下のイアンの記事やNordOstさんの記事などでもって把握して頂けると良いと考えます。特にナードコアを「好きすぎるものへの愛情をテクノミュージックを通して見せつけたい気持ちで作られた音楽」とする解釈は、後のアートにおけるサンプリングとの比較において出てくるので、覚えてほしいポイントでもあります(もちろん、これに該当しないナードコアテクノも多分にあります)。

chigai.pico2culture.jp

avyss-magazine.com

さて、ここ数年私は「ナードコアテクノ」の基盤を感じさせる直接的な表現や手法をあまり用いなくなってきました。特に、特定のアニメ・ゲーム・TV・その他カルチャーを露骨にサンプリングした表現も、2019年以前に比べて頻度が極めて減りました。完全に脱却したわけではないことはTwitterのアイコンなどからも自明な事ですが……。元から自分をナードコアテクノだと標榜したことはあまりありませんが、分かりやすく「ナードコアテクノ」を踏襲した音楽はここ数年発表しておりません。

その要因は一つではなく、多くの要因が複雑に絡み合っているので、コレ!と言えるものではありません。ナードコアテクノやサンプリングが嫌いになったとかではないということは明記しておきます。

これから論じていきたい事に焦点を合わせるべく、(そして何を書きたかったのか自分が忘れないように)その要因のキーワードをかいつまんで述べます。

  • サンプリングの暴力性とサンプリング・ネイティブ世代の葛藤
  • 2020年代のサンプリングに対する深い欲求不満
  • サンプリングの持続可能性
  • サンプリングと商業
  • サンプリングの延命

このように文字列を抜き出して並べると、単純に今更サンプリングに絶望してしまって終わっているだけの、厭世だけで終わってしまってるだけの人のような印象を与えてしまってよくないですね。確かにサンプリングの今に一部絶望している側面はあります。しかし私はたかだか活動歴13年ほどではありますが、活動のほとんどをサンプリングに依拠してきました。もっと広義に、「ある制作物の全体・部分を略奪して新しい制作物を作る」という方法論で見れば、幼少期から慣れ親しんできたと言えます。だから、サンプリングへの思いはそれなりに強く、これからのサンプリングのあり方を考えたいという気持ちがあるのです。

これから述べていく事を、音楽のような良くも悪くもかなりの曖昧さを持つ形式のみで、多くを伝えるのは困難であると考えます(これは私の敗北宣言です)。従ってテキスト、加えて今後の展開次第では、他の表現形式でもって自分自身と皆さんにお尋ねしたいと考えています。

次回に続く

回想・感想20230523

ブログを書いてる暇が一時的に無くなってしまってから13日が経っていたので、書くことに。数週間前にはフォロワーが減ることしか書けなくなってしまったと嘆き、はてなブログへの移行を弱く宣言していたのに、既にツイート量も復活しつつあるという有様だ。ちなみに定量的な話をすると、フォロワー数は減り続けている。俺のツイートが食えねえってぇのか?

 

この空白期間中に、引越し先がほぼほぼ確定した。関東の皆様におかれましては遊びやすくなると思うし関東のイベントにも出演しやすくなると思われるので、是非お呼び頂きたいし自分も行動していきたい。新コロに対する風向きが変わってオフラインイベントが活発になってきた情勢とは裏腹に、一昨年・昨年はあまりにも外に出ていなさすぎた。こういうのは言わないほうが良いというのは百も承知であけすけに話すと、今年も極めて暇で、4月の岡崎でのイベント出演の1回しかライブをしておらず、今後の予定も一切ない(だからこそひかりのラウンジの温情に心救われた所はある)。しかし制作の手を止めていたわけではない。発表したいもの、やりたいことが山ほどある。とはいえあんまり忙しくなりすぎたくはないものですが……。

 

空白期間中に、美術のコンペティションに応募するための資料を作っていた。はっきり言って自分は正規の美術教育をこれっぽっちも受けておらず、ここ数年の間に意識的に本を読みかじったり展示を観に行ったりしただけの、まぁワナビーと言っても差し支えない者だ。それでも応募したのには2つ理由がある。

 

一つは、明確に締め切りがあるもの向けて体裁を整える、努力する、ということを久々にやりたかったという事。今、2000ではずっとアルバムの制作をしているのだが、ステークホルダーはメンバー以外にいないし、メンバーもともに音楽を生業としておらず別の仕事で生計を立てている事、無理はしないという方針がある事、このことから厳格な締め切りは基本設けていないし、仮に設けても守る必要性は薄いのだ。*1ことピアノ男ソロの作品に関しては余計守る必要がない。

では、自分に外注の音楽仕事が無かったかと言われると、そんなことはなくて比較的タイトな締め切りの案件をいくつかこなしていたのだが、*2他者の指揮に従う制作の締め切りとはまたワケが違うのである。自分に全権全責任がある制作の締め切り、というのが大事だ。

自分個人の制作となると、無限にこだわろうと思えばこだわれてしまう。そして納得したくなければ、好き放題納得しないことができ、発表しないことができる。すると、一生作品を世に出さない、ということは容易に可能だ。そういった状況の中で「納得する」「納得いかなくても世に公表する」のが作品を作るということだと自分は現時点で思っていて、締め切りはそれを促進するものだと捉えている。

 

もう一点は外交だ。

色々作ってみていると、自分がどこに向かっているのか、どこに向かうべきなのか、容易に分からなくなってくる。そういう中で、かつて閃光ラ◯オットに応募してみたり、出れんのサ◯ソニに応募してみたりと、明らかに分野違いかもしれないものでも何かチャンスをつかもうとガムシャラに応募していたことを思い出した。そういった経験を経て、音楽については方向性の取捨選択を少しずつできるようになってきた。美術についても、今の自分がどれほど適性があるのか見極めるために(結果によってはその道を諦めるために)、ヤケクソで応募してみるのがいいと思った。

作っているものが良いものなのか、自信を持てなくなってくる。マスターベーション度高すぎになってないか、と不安になってくる。そういった時に他者の意見をもらうのは壁を突破するキッカケになる、というのはもはやセオリー通りかもしれない。ここで他者として誰を選択するか、というのも重要だ。しばしば自分の意図するところを理解してくれる信頼できる人(くだけて言うと仲いい人)を選択する。ただ、これを続けていると、身近な人々に過度に最適化された作品になっていく恐れはないか。それはそれで尊いのだが、いきすぎると危ない。

トータルで見て自分が楽しんでやれること、自分が最終的に納得できるということ、これは大前提。その上で自分は、残念ながら自分の欲求"のみ"に従って作品を作るという才能がない。第三者の視点を多少なりとも意識している。だから作品が誰の相手にもされないというのは結構自分の心に悪影響がある。身内だけに評価される、というのも満足できない。万人とまではいかなくても、身内を一歩飛び越えた所にも訴えかけるものを作りたい。その飛び越えた所に意見を伺う(=外交)のも時には必要なのではと思った。

 

さて、当たり前すぎる話を書くためにまた無駄に時間を使ってしまった。文章も冗長かもしれない。もっと気楽にブログを更新したいものだ。やっていたことは他にもあるので、やる気があれば書きましょう……。

*1:もっともParasitic Dominatorに限ってはマルチネ社長によって締め切りが設定されていたが

*2:つまり自分は締切を守れる側なので安心して仕事を振ってください!