おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

「割れ音源」は完全に悪なのか?の補足と所感

まずは記事をご覧いただきありがとうございました。(未見の方は以下よりどうぞ)

natalie.mu

 

ナタリーさまからのリリースということで、この話題を衆目に触れる場ですると誰が書こうがそれなりに反響があることは容易に想像できたのですが、概ね予想通りそれなりの反響がありました。

緩めに設定して頂けましたが、期日や文量の設定がある中で書くと、どうしても言葉足らずな部分は出るし、書き足らない所もあります。なので、ここで幾らかの補足説明をしようと思います。

この記事を書いた動機

まず、再三言っておきたいのは、私は割れ行為を手放しに肯定したくはないということです。私も折角作ったものをタダで消費され続けたら流石にムカつきますし、生活に支障が出るから作ることをやめるでしょう。無断サンプリングにしても、そういったものを制作・受容しておきながらなんですが、こういうの嫌な人だったら申し訳ないなぁと罪悪感が頭をよぎる瞬間は年々多くなっています。

ただ記事で述べたように、単なる食い逃げや万引きとは事情が違い、オリジナルの作品の広がりに貢献したり、その作品の属する文化圏の発展に繋がったりするケースも実際ある。法的にも、権利者が事後的に不問にする余地はある。勝手にサンプリングされるのが嫌じゃない人もわりといる。という所が事を難しくしているように思います。

あくまで私見ですが、割れ・無断サンプリングは犯罪だし倫理的にもすべきでないとする厳格な立場と、そういうカルチャーだから大目に見るべきという立場の二つが大きく分けてあると思います。私の記事では、もしかしたら力不足で後者に近い意見のように映ってしまったかもしれませんが、そうではなく、この2つの対立から抜け出せる道を見つけたいと思うわけです。

しかし、割れ・無断サンプリングを巡っては、そのアングラな特性も相まって*1、どういう背景や経緯があるのかが表面化しにくかったり、誤解があったりするように思います。

法的な側面を解説する記事は多くあるのですが、そこから漏れる側面についてはあまりまとまっていない気がします。なので、自分が知る事や客観的と思える資料をもとに、法的見地から漏れる部分をカバーして、様々な議論のたたき台にできないかと思ったわけです。

なので、何か意見があれば、個人ブログなどでいいので記事を書いてみてもらえると、こちらとしても書いた甲斐があります。Twitter(X)はそろそろ死ぬと思うので、残りやすい媒体がいいですね。

真面目な人が割を食うグレーゾーン

記事を書いた動機にも繋がる話なのですが、こういう問題のグレーゾーンというのは救済的な側面もあるのですが、一方で真面目な人ほど割を食うものでもあるんじゃないかと思います。

たまにDTM初心者などの書込みで「◯◯のリミックスをしてみたのですが、soundcloudなどに公開していいものなのか分かりません」とか「著作権的に何がOKで何がOUTかわからない」とかいう質問を見ることがあります。現実問題、soundcloudなどに無料で公開した程度で訴訟してくる人はほぼいなく、権利者の申し立てで削除されるのが関の山だし、世界の結構な人数はそんな事気にせずに無許可リミックスをアップしてます。怒られたら素直に取り下げる、という運用の人は多いでしょう(サブスクリリースなどお金が絡むと事情は異なると思います)。だからといって、やって良いと大手を振って答えるわけにはいかない。なので「許可を得る必要があります」と答えることになるわけですが、tracklibなどのようにクリアランスが容易にできるサービスも出てきた時代ではあるものの、まだ全ての楽曲がそういうサービスを経由して許可を取れるわけでもないし、費用もかかります。

ここでひとつ、私自身の例を述べると、好きな某芸能人の声を無断でサンプリングして楽曲を制作し、ツイッターにアップロードしたら、たまたまそれを見た本人から公式に仕事を頂けるようになったことがありました。私に限らずこういうやり方で売れていった人って割といると思います。(ただ、それに味をしめて打算的にやり始めだすのはイケてないと私は思いますが)

真面目な人は許可取りの困難さに萎縮するか許可取りに奔走するわけですが、私はそういうのをすっ飛ばして新しい仕事に繋げることが出来てしまったわけです。こういったアンバランスさを放置しておくのは健全と思えない、けど創作の自由度とか発展の可能性を下げることもしたくないので議論を喚起したかったのです。

国ごとの考え方の違い

オリジナルの流用については、国ごとに多少考え方の傾向が異なる可能性もあると思っています。これはかなりトリッキーなケースかもしれませんが、先日FL Studioを割ることについて議論するインドネシア人の動画を見ていた時に、次のようなコメントがついているのを見かけました。

自分のものではないものを売ってはいけない、というハディースがあるから割れソフトを売るのはハラームだが、個人的に使うのは余裕がない場合は問題ない。特にそのソフトがイスラムの勉強に関係ない場合は。(筆者訳)

ハディースとはイスラム教の預言者ムハンマドの言行録のことで、ハラームはイスラム教の教えで禁じられていることです。私はイスラム法学者ではないので、これがイスラム的に正しいのか、信者的にマジョリティな考え方なのかは分かりかねますが、検討に値する意見だと思います。

念のため、ちゃんと購入しようと思います、買って使ってます、と意思表示をしているコメントも多数あるということは述べておきます。

法律とサンプリング

法的な側面を見てみると、特にサンプリングについては国によって検討の進み具合が異なりそうです。私は法律の専門家ではないので、法の専門の方が書かれた記事から解釈して見ていくことにします。正確さに欠ける部分があると思うので、あまり当てにしないでください。

サンプリングにおける著作権の問題を語る時、著作権そのものに加えて原盤権と呼ばれるものがあります。レコード製作者(レコードに固定されている音を最初に固定した者)の権利のことです。オリジナル音源の音の一部をそのまま流用するサンプリングをする場合、その楽曲の著作権を持つ人だけでなく、原盤権を持つ人からも許諾を得るのが通例となっています。

よくある俗説として「〜秒以内のサンプリングなら問題ない」というものがありますが、法的にも解釈が揺れ動く部分のようで、次の中川隆太郎弁護士の記事では、原盤権侵害のルールについて日本・アメリカ・EUでの比較がなされています。

www.kottolaw.com

この件で有名らしいのが2006年アメリカのBridgeport事件の判決です。アメリカではレコード原盤を保護する権利は、著作隣接権ではなく著作権のようですが、ここでは元の音源を識別できようができなかろうが(どれほど短かろうが)著作権侵害であるとする判決となったようです。

しかし2016年のVMG Salsoul事件判決では、Bridgeport事件判決の解釈を誤りであるとし、de minimis 法理と呼ばれる、形式的には侵害行為でも、裁判で解決するレベルじゃない些細なものは気にしないことにする法理の適用が認められ、侵害でないとの判決となりました。

EUでは2019年のPelham事件判決で、「サンプリングした部分が非常に短いものであったとしても、原則として複製権侵害の対象となる」としつつ、例外として元の音源を識別できないように変更されたものを使うことは複製権侵害ではない(複製でない)とされました。

日本では、未だ裁判例が見つからない(2019時点)ようですが、学説では2016のアメリカやEU同様、識別できないものは侵害でないとする解釈が有力だと中川弁護士は述べています。

正直なところ、実務の面でも分からないレベルまでエフェクトをかけたりカットアップしたりしてしまえば、黙っていたら誰も分かりようがないし、パクられた本人ですら気づけないと思います。法律の話を抜きにすると、特にキックやスネアのようなドラムサンプルなんかは、EQのかけ具合とか歪ませ方とかに作家の努力や属人性が現れてくるかもしれませんが、その作家ですら誰かが作ったシンセやドラムを元に作っているのがほとんどなわけで、それと何が違うのかという気持ちにはなります。なので直近の判例は個人的には腑に落ちるものと考えます。

 

他のトピックとしては、長くなってしまうので今回は深入りしませんが、アメリカ法にはフェアユースと呼ばれる例外規定があります。2 Live CrewのPretty Womanという楽曲は、Roy OrbisonのOh, Pretty Womanをサンプリングし、2 Live Crew的な痛烈さを持った歌詞で歌ったパロディソングですが、オリジナルの権利者側が著作権侵害であると訴え*2、この楽曲はオリジナル曲のフェアユースであるかどうか、そもそも商業的なパロディはフェアユースとなり得るかが争われました。

www.youtube.com

一審ではフェアユースを認められ、控訴裁判所ではフェアユースと認めず差し戻し、連邦最高裁では控訴裁の判決を破棄差戻し。元の表現を新しい表現・メッセージで改変し、別の意味を与える「transformative use」という使い方なら商業的であれどもフェアユースとなり得る可能性を示したようです。

日本では10年以上前から議論されてはいるものの未だフェアユース規定は導入されておらず。対象に対して批評的なサンプリングの使い方をしている作品、パロディ作品の取り扱いについては法の動向を注視し続ける必要がありそうですね。

おわりに

この問題は私が書こうが誰が書こうが絶対厳しいコメントが付いたりそれなりに燃えたりするだろうということは容易に想像できていました。申し訳ないけど小心者すぎて引リツやヤフコメはほぼ見れてません。

でも、腰を据えて話はしたいので、何か機会ありましたらお話ししましょう。ブログ記事とかも目についたら読みに行きます。特に法律の面、経済の面は極めて素人なので補足などがあると嬉しいです。

*1:だからコッソリやってたのをわざわざ掘り起こして衆目に晒すのを嫌がる人もいると思ったので躊躇ったのですが、でも、もう時代の変わり目じゃないでしょうか

*2:2Live Crewは事前に権利者にパロディをすること・一定の使用料を支払うつもりであることを伝えていたが、返答を得られる前にリリース。許諾できない旨が伝えられたのはリリース後であった。

サンプリングを再考する part.II

先輩たちのサンプリングに対する意識

part2では、自分がこれまで注目してきた先輩方のサンプリングに対する意識・態度について、あたれる文献から比較を試みます。今回、私が射程とするのは以下の分野の諸先輩です。

ナードコアテクノ・ガバ・現代美術(シミュレーショニズム)

part1では、ナードコアテクノを「好きすぎるものへの愛情をテクノミュージックを通して見せつけたい気持ちで作られた音楽」であるとする解釈を紹介しました。ここで注目するのは、「愛情」です。もう少し広くとって、「サンプリング対象への想い」としましょうか。上の三つの間というか、サンプリングベースで活動しているアーティスト達の間で、サンプリング対象への向き合い方に差異が強く現れると考えます。以下では、各分野の特定の先輩方について取り上げて説明をしていきますが、その先輩方の見解が各分野の総意というわけではないことには注意してください。

ナードコアの愛

ナードコアは、一般には「アニメ・ゲーム・映画・テレビなどの音源をサンプリングしたテクノ」として伝わっていることが多いと考えます。そのような意識のみでナードコアを作っている人も多くいると考えます。しかし先に紹介した定義のように、ただただ無神経に、あるいは何らかの悪意を持ってサンプリングするのではなく、サンプリング元への愛情表現、ないしは好きなものをさらにカッコよく見せたいという態度を持った上で制作をするという意識もこの分野の根底には流れていたと考えます。もう10年以上前(!)の記事ではありますが、次の記事にその様子が垣間見られます。

underdefinition.hatenadiary.jp

政所さん(現・プロハンバーガー)はレオパルドンという名義で初期ナードコアシーンを牽引していた一人で、私がナードコアテクノやインドネシアにハマっていったきっかけの一人でもあります。

レオパルドン吉幾三や香港映画、特撮などをサンプリングする作風でしたが、彼が運営していた「レオパルドン秘密基地」というサイトでも香港映画に関するコラムが多々見られ、その愛は確かだと考えます。

レオパルドン以外のアーティストを見ても、全日*1志村けんやゲームが好きだと思うし、DATゾイドさん*2プログレが好きだと思うし、ディスクさんはDJケオリが好きだと思います(?)。具体的にソースを出せと言われると困り果てるのですが、そういう印象があります。

しかし記事でもあるようにこれがナードコアの総意ではなく、例えば「犬死に」*3は別の見解があると考えます。他に、ツイートが出てこないので不正確ですが、BUBBLE-Bさんは好きなものをサンプリングという方法へのアンチテーゼで、ネタモノテクノ名義ではどうでもいいものをサンプリングするというのをやった、というようなことを言っていた気がします(違ったらすみません)。ナードコアという括り自体、各地で同時発生的に出現していたものがクイック・ジャパンという雑誌によって「ナードコア」という括りになった、という流れのようなので、再三言うように異なる問題意識を持ってやっていた方はいます。

ちなみに私はテレビが好きなので、テレビ番組やテレビタレントのサンプリングが比較的多かったように思います。でも、好きなものをサンプリングするという意識よりは、誰がこんなのをサンプリングするんだ?というものをサンプリングする、という意識のほうが強かったかもしれません。「誰がこんなのを」というニッチさというか、メインストリームへのカウンター感も自分が好んできたナードコアの特徴かもしれません*4

サンプリングにはドラムぐらいの意味しかない、ガバ

今度はガバに目を向けてみます。そもそもナードコアテクノにはガバをベースにした音楽が多々見受けられるし、「ナードコア」という名前からアニメガバ=ナードコアという誤解が産まれることもあるぐらいなので、これも分かりやすく境界線を引くことは困難ではあると思います。

ここでは、Hammer Brosの見解を紹介しましょう。Hammber Brosは日本で1994年から活動している、Big the Budo(Shit da Budo, MC Shit B)・Tatsujin Bomb・Tokyuhead(Librah、DJ Lib)からなる3人組のガバユニットで、高橋名人はだしのゲンのサンプリングがよく知られています。詳細は以下の記事などが詳しいです。

note.com

彼らはどのような意識でサンプリングしていたのか。ここで、Quick Japan Vol.12でのHAMMBER BROSへのインタビューを引用します。

TOKYU: 曲じゃない部分で、サンプルネタそのもので「ここ、笑ってください」「ここ、笑うところです」っていうのは"ハンマーブロス"では無いなあ。

 

BUDO: (自分たちのは)笑えないサンプリングばかり。これは"ナセンブルテン"がやってるんですけど、なんの脈略も無くテレビのショー司会者が「また来週」って言って客席が拍手して曲が終ったり、そういうのって意味不明ですよ。本人達が面白いと思ってやっているのかさえ、わからない。全員には絶対にわからないという使い方。見下してるわけでもないし、狂ってるわけでもない。これは彼らから学んだつもりなんですけど、笑いのネタにとか、パロディとか、狂ってるように見せるためとか、そういうサンプリングの使い方って、自分の中ではもう終わってる。もうちょっと違う使い方があるんじゃないかなと思うんですけど。

 

(中略)

 

―"ハンマーブロス"の、サンプリング対象への思い入れとか距離感っていうのは、どんな感じなんですか?

 

TOKYU: なんていうか、サンプリングしたものには、ドラムぐらいの意味しかないっていう感じかなあ。

Quick Japan Vol.12(1997) 太田出版 pp156.より引用

ナードコアがサンプル対象への愛を示しているのとは打って変わって、Hammer Brosはサンプル対象の文脈や愛情を無効にするかのような態度です。ナードコアは愛があるんだろうなと分かるし、パロディはどういう意図があってやったのかが見えますが、Hammer Brosの場合は愛や意図があるかないかとかではなく、分かりません。見えないようにしています。「ドラムぐらいの意味しかない」というのがそれを明瞭に示しているような気がします。

1995 GENPRODUCTIONなるはだしのゲン原作者公認のページがかつてメンバーによって運営されていたように、高橋名人はだしのゲンに対する何らかの関心はあるんだろうと思いつつも、それが好きなのかよく分からなくなるサンプリングセンスでかっこいいと私は感じていました。

私がメンバーの一人であるリョウコ2000は2020年に「Parasitic Dominator」というガバのEPをリリースしていますが、私自身はこの制作において上述の態度に強く影響を受けておりました。

以上はガバというよりHammer Brosの態度でしたが、例えば以下のシャープネルさんのインタビューにあるように、サンプリング元に対してナードコアのように愛があるかはあまり見えてこない(本人にインタビューすればあるのかもしれない)、これを入れるとなんか良いから入れるんだみたいなサンプリングというのは、他のガバでもよくあったように思います。

nlab.itmedia.co.jp

シミュレーショニズム

音楽から打って変わって、今度は現代美術に話を移します。以下の多くは椹木野衣 - 増補 シミュレーショニズム ハウスミュージックと盗用芸術(筑摩書房,
2001)や1990年代の美術手帖などを参考にしています。私自身が1994年産まれで、美術に強く関心を持ち始めたのもここ3〜4年ぐらいの話なので、電子機器や紙面の情報のみでしか知らないのがなんとも悔しいところではありますが……。

シミュレーショニズムは1980年代頃よりニューヨークを中心に流行した芸術動向です。盗用芸術と言うように、ルールに則った引用などではなく、勝手に過去の著名な作品の全体や要素をぶんどって全く別の文脈に接続し、自身の作品として提出する「アプロプリエーション」といった方法論でもって作品が制作される傾向がありました。

個別の作家をいくらか挙げると、

リチャード・プリンスは広告や雑誌などの写真を再撮影し、拡大したりトリミングしたりした作品を発表しています。写真の広告としてのメッセージ性は排除され、写真というメディア自体の性質や歴史、あるいはオリジナリティという概念に言及する形になっています。

シェリー・レヴィーンは男性優位の業界に待ったをかけるフェミニズム的観点から、過去の男性写真家による写真作品をそのまま撮影し、自身の作品として発表しています。

マイク・ビドロは、現代美術においてあらゆることがやり尽くされすぎていて、本当にオリジナリティのあるものなど思いつけやしないというペシミズム的な態度から、過去の名画をそっくりそのまま模写して自分の作品として発表をしています。(そしてそれが却ってオリジナリティとなっている)

他にもシンディ・シャーマンやら森村泰昌やらジェフ・クーンズやら挙げだすと切りがないのでこれ以上は書籍を参照してほしいのですが、この動向の背景には、複製技術が極度に発展しまくった消費社会への批評、美術芸術の権威的な側面に対するマイノリティからの抵抗、オリジナリティや進歩史観の問い直し・解体、などがあったようです。

つまりどの作家もナードコアのようなサンプリング対象への愛みたいなものはない、むしろ憎い寄りなのかもしれない。加えてHammer Brosのガバのように、サンプリングした理由を説明できないようなものかと言われると、むしろコンセプト・意図はかなりある。現代美術は歴史的経緯から基本的にコンセプト重視で(その風潮を批判する向きもいくつかありつつ)、ナードコアのようにただただ好きだからモチーフにした、だけでは現代アートとしては評価されない傾向があると考えます。

シミュレーショニズムのずるいというかややこしいのは、進歩史観、新しさ信仰を否定して、過去の産物を掘り出してゾンビのように繰り返すわけですが、それが却って新しさになってしまっているし、過去の産物を別の文脈にくっつけて再構成する方法なんかも結局新しさを提示しているような気がする所だと私は思います。そして、そのシミュレーショニズムの感覚に従ってやった所で、それは結局シミュレーショニズムの二番煎じみたくなってしまう。という話をして行きたいのですが、長くなるので次回以降に回します。

まとめ

ナードコア・ガバ・シミュレーショニズムの三分野におけるサンプリングという方法に対する態度をまとめます。

ナードコア……サンプリング対象に対する愛がある。愛を発露するためのサンプリング

シミュレーショニズム……サンプリング対象に愛はない。別の意図がある。

ガバ……サンプリング対象に愛があるかどうか分からない。意図も見えない。

 

こうしてみるとナードコアとシミュレーショニズムなんかは、サンプリングという点で共通してるように見えても、制作に対するモチベーションが真逆です。

付け加えると、音MADなんかは、話題になった面白ニュースや面白人物、アニメと流行ってる曲を組み合わせて作るというものが多く、それはナードコアのような愛がない上にシミュレーショニズムのような意図もない、ガバのように愛があるかどうか分からない訳でもなくただ愛がない、というものも多く見られます。(もちろんドナルド教信者のような方々のように、愛ゆえのものも多くあると思います)

愛があるとかないとか意図があるとかないとかで良し悪しを論ずるつもりはなく、そういう差があると言える事のみをここでは示したいのです。

私はこれまでナードコアテクノを基盤に活動してきましたが、振り返るとナードコアが好きというよりは「サンプリング」という方法論、もっと言うと「無許可でパクる手法」自体に関心があって、だから音MADもナードコアもガバもシミュレーショニズムも同等に興味を持ったんだと思います。ただ、自分は思春期にナードコアで育ったため、ナードコア的な方法論をとってきたし、一時期は若気の至りでナードコア原理主義みたいな状態でした(本当に詫びて回りたい)。

さて、ここまでである意味音楽におけるサンプリングの大先輩と言えるヒップホップやハウスにはまだ触れてきませんでした。これについては、次回「サンプリングの暴力性とサンプリング・ネイティブ世代の葛藤」というテーマで触れていきたいと思います。

 

次回に続く

*1:http://chigai.pico2culture.jp/article/182747272.html

*2:https://gorill.booth.pm/

*3:西村物産主催のイベント及び、周辺界隈を指す。レオパルドンなどが主に出演していたパーティ・SPEEDKINGへの反対勢力と取れるような記録が残されている。

*4:今は大きなメインストリームみたいなのがあんまりないので話も変わってきますね

サンプリングを再考する part.I

サンプリング、ナードコアテクノと私

私が人生で初めてコンピュータで作った曲は、ダイヤルアップ接続音のmp3ファイルをカットアップした簡素なテクノだったと記憶しています。楽譜を書いたり、MIDIを打ち込んだりと当時から様々な作曲方法があるなかで、サンプリング・カットアップでもって活動を開始したのは、それまで制作に励んでいた「音MAD」の影響が多分にあると考えます。決して「サンプリング」という手段の性質に自覚的な状態で、俯瞰した状態で始めたわけではなく、ただただ中学生の直観で道具を選んだ、あるいは環境に選ばされた結果だったと回想します。

そこから私はおよそ10年にわたり、日本の「ナードコアテクノ」に影響を受けた制作やライブ活動を行ってきました。私が指し示す「ナードコアテクノ」については、以下のイアンの記事やNordOstさんの記事などでもって把握して頂けると良いと考えます。特にナードコアを「好きすぎるものへの愛情をテクノミュージックを通して見せつけたい気持ちで作られた音楽」とする解釈は、後のアートにおけるサンプリングとの比較において出てくるので、覚えてほしいポイントでもあります(もちろん、これに該当しないナードコアテクノも多分にあります)。

chigai.pico2culture.jp

avyss-magazine.com

さて、ここ数年私は「ナードコアテクノ」の基盤を感じさせる直接的な表現や手法をあまり用いなくなってきました。特に、特定のアニメ・ゲーム・TV・その他カルチャーを露骨にサンプリングした表現も、2019年以前に比べて頻度が極めて減りました。完全に脱却したわけではないことはTwitterのアイコンなどからも自明な事ですが……。元から自分をナードコアテクノだと標榜したことはあまりありませんが、分かりやすく「ナードコアテクノ」を踏襲した音楽はここ数年発表しておりません。

その要因は一つではなく、多くの要因が複雑に絡み合っているので、コレ!と言えるものではありません。ナードコアテクノやサンプリングが嫌いになったとかではないということは明記しておきます。

これから論じていきたい事に焦点を合わせるべく、(そして何を書きたかったのか自分が忘れないように)その要因のキーワードをかいつまんで述べます。

  • サンプリングの暴力性とサンプリング・ネイティブ世代の葛藤
  • 2020年代のサンプリングに対する深い欲求不満
  • サンプリングの持続可能性
  • サンプリングと商業
  • サンプリングの延命

このように文字列を抜き出して並べると、単純に今更サンプリングに絶望してしまって終わっているだけの、厭世だけで終わってしまってるだけの人のような印象を与えてしまってよくないですね。確かにサンプリングの今に一部絶望している側面はあります。しかし私はたかだか活動歴13年ほどではありますが、活動のほとんどをサンプリングに依拠してきました。もっと広義に、「ある制作物の全体・部分を略奪して新しい制作物を作る」という方法論で見れば、幼少期から慣れ親しんできたと言えます。だから、サンプリングへの思いはそれなりに強く、これからのサンプリングのあり方を考えたいという気持ちがあるのです。

これから述べていく事を、音楽のような良くも悪くもかなりの曖昧さを持つ形式のみで、多くを伝えるのは困難であると考えます(これは私の敗北宣言です)。従ってテキスト、加えて今後の展開次第では、他の表現形式でもって自分自身と皆さんにお尋ねしたいと考えています。

次回に続く

回想・感想20230523

ブログを書いてる暇が一時的に無くなってしまってから13日が経っていたので、書くことに。数週間前にはフォロワーが減ることしか書けなくなってしまったと嘆き、はてなブログへの移行を弱く宣言していたのに、既にツイート量も復活しつつあるという有様だ。ちなみに定量的な話をすると、フォロワー数は減り続けている。俺のツイートが食えねえってぇのか?

 

この空白期間中に、引越し先がほぼほぼ確定した。関東の皆様におかれましては遊びやすくなると思うし関東のイベントにも出演しやすくなると思われるので、是非お呼び頂きたいし自分も行動していきたい。新コロに対する風向きが変わってオフラインイベントが活発になってきた情勢とは裏腹に、一昨年・昨年はあまりにも外に出ていなさすぎた。こういうのは言わないほうが良いというのは百も承知であけすけに話すと、今年も極めて暇で、4月の岡崎でのイベント出演の1回しかライブをしておらず、今後の予定も一切ない(だからこそひかりのラウンジの温情に心救われた所はある)。しかし制作の手を止めていたわけではない。発表したいもの、やりたいことが山ほどある。とはいえあんまり忙しくなりすぎたくはないものですが……。

 

空白期間中に、美術のコンペティションに応募するための資料を作っていた。はっきり言って自分は正規の美術教育をこれっぽっちも受けておらず、ここ数年の間に意識的に本を読みかじったり展示を観に行ったりしただけの、まぁワナビーと言っても差し支えない者だ。それでも応募したのには2つ理由がある。

 

一つは、明確に締め切りがあるもの向けて体裁を整える、努力する、ということを久々にやりたかったという事。今、2000ではずっとアルバムの制作をしているのだが、ステークホルダーはメンバー以外にいないし、メンバーもともに音楽を生業としておらず別の仕事で生計を立てている事、無理はしないという方針がある事、このことから厳格な締め切りは基本設けていないし、仮に設けても守る必要性は薄いのだ。*1ことピアノ男ソロの作品に関しては余計守る必要がない。

では、自分に外注の音楽仕事が無かったかと言われると、そんなことはなくて比較的タイトな締め切りの案件をいくつかこなしていたのだが、*2他者の指揮に従う制作の締め切りとはまたワケが違うのである。自分に全権全責任がある制作の締め切り、というのが大事だ。

自分個人の制作となると、無限にこだわろうと思えばこだわれてしまう。そして納得したくなければ、好き放題納得しないことができ、発表しないことができる。すると、一生作品を世に出さない、ということは容易に可能だ。そういった状況の中で「納得する」「納得いかなくても世に公表する」のが作品を作るということだと自分は現時点で思っていて、締め切りはそれを促進するものだと捉えている。

 

もう一点は外交だ。

色々作ってみていると、自分がどこに向かっているのか、どこに向かうべきなのか、容易に分からなくなってくる。そういう中で、かつて閃光ラ◯オットに応募してみたり、出れんのサ◯ソニに応募してみたりと、明らかに分野違いかもしれないものでも何かチャンスをつかもうとガムシャラに応募していたことを思い出した。そういった経験を経て、音楽については方向性の取捨選択を少しずつできるようになってきた。美術についても、今の自分がどれほど適性があるのか見極めるために(結果によってはその道を諦めるために)、ヤケクソで応募してみるのがいいと思った。

作っているものが良いものなのか、自信を持てなくなってくる。マスターベーション度高すぎになってないか、と不安になってくる。そういった時に他者の意見をもらうのは壁を突破するキッカケになる、というのはもはやセオリー通りかもしれない。ここで他者として誰を選択するか、というのも重要だ。しばしば自分の意図するところを理解してくれる信頼できる人(くだけて言うと仲いい人)を選択する。ただ、これを続けていると、身近な人々に過度に最適化された作品になっていく恐れはないか。それはそれで尊いのだが、いきすぎると危ない。

トータルで見て自分が楽しんでやれること、自分が最終的に納得できるということ、これは大前提。その上で自分は、残念ながら自分の欲求"のみ"に従って作品を作るという才能がない。第三者の視点を多少なりとも意識している。だから作品が誰の相手にもされないというのは結構自分の心に悪影響がある。身内だけに評価される、というのも満足できない。万人とまではいかなくても、身内を一歩飛び越えた所にも訴えかけるものを作りたい。その飛び越えた所に意見を伺う(=外交)のも時には必要なのではと思った。

 

さて、当たり前すぎる話を書くためにまた無駄に時間を使ってしまった。文章も冗長かもしれない。もっと気楽にブログを更新したいものだ。やっていたことは他にもあるので、やる気があれば書きましょう……。

*1:もっともParasitic Dominatorに限ってはマルチネ社長によって締め切りが設定されていたが

*2:つまり自分は締切を守れる側なので安心して仕事を振ってください!

ピアノ男 掲示板に戻ってきてくれ

今は仕事を完全に家でリモートでやっている*1。全くの無音だと発狂しそうになるけど、音楽をかけると聴き込んでしまうので、いつもBGM代わりにテレビを垂れ流しにしている。テレビだって見入ってしまうと思いきや、意外と実家時代の慣習が身についているのか、音楽以上にBGMとして受け入れられる。

さて、なぜなのか分からないが、昼間にカンテレで電車男が再放送されていた。昼食休憩にして、少し視聴してみる。今となっては時代遅れを通り超えて古典レベルのヲタク像。無理もない、驚くべきことにもう18年も前の作品である。にもかかわらず劇団ひとりはあまり今と変わらない印象で二重に驚き……

 

「ピアノ男」は、小学5年生頃からインターネット上でのHNとして使用している名前だ。電車男は言わずもがな由来の一つである。放映当時小学4年生であった私は、2ちゃんねるや面白フラッシュ、アスキーアートを知ってドハマりしていた。リアルとセルアウトの違いが分かるわけない私は、当然電車男にも熱中したのであった。9時には寝るよう義務付けられていたので、リアルタイムで見れた回数は少ないのだが……。

今改めて電車男に触れ「ピアノ男」という名前について考えてみる。

由来は名前をつけた当時電車男が好きだったのと、当時ピアノにハマっていたからつけた、と昔から公言している。

だが、そもそもピアノは大して弾けるわけでもないし、ピアノに関してマニアでもない。さらに言えば電車男が好きかと言われるとそれも微妙だ。

電車男放映当時(2005年)は、2ちゃんねるネタやAAをインターネット以外の場で摂取できる事に価値を強く感じていた。地上波で爆笑問題太田が2ちゃんねるに言及してると嬉しかったし、本屋で2ちゃんねる本があると立ち読みした。田舎の10歳の2ちゃんファンとはそういうものだ。パソコンができる時間は制限されており、掲示板そのものを深堀りはできない。2ちゃんネタに餓えていたのだ。電車男も2ちゃんネタ摂取のためだ。だから電車男が好きというよりは、電車男に出ている2ちゃんネタ・AA・ヲタクが好きだった。ストーリーなんかは10歳の自分にはあまり理解できない話だったと思う。

電車男を改めて視聴してみると、恐らく2005年当時から見ても古典的なラブストーリーで、古典的であることの良し悪しはともかくとして、エルメスタソが電車男に惹かれていく過程は都合が良すぎて結構厳しいものがある。電車男のブーム自体がヲタクへの偏見・固定観念を加速させた、という思い込みもあって放映後数年間は個人的に電車男への嫌悪感もあった覚えがある。というわけで電車男は多分あんまり好きじゃない。

さらに言えば、2ちゃん(5ちゃん)自体があまり好きじゃなくなってきたというか。数年前まで散々2ちゃんやおもしろフラッシュ発祥のネタに影響を受けた制作をしてきてて言うのもなんだけど、「インターネット系」として自分が括られることに拒否反応が出つつある。「インターネットやめろ」「ここはひどいインターネッツですね」などの言葉に見られるように、そもそも「インターネット」*2をやっている人はインターネットに対して自嘲的な傾向があるのだが、今やそういう自嘲的な空気感も込みで拒否反応がある。ていうか「インターネット系」って、めっちゃバカにされてるような言葉に感じる。なぜバカにされてると感じるのかと言うとまだ説明できないのだが……。

 

というわけで、ピアノ男という名を名乗るにはあまりにも実態と乖離があるし、ピアノを弾ける人だと思われる弊害がかなりデカいので早く改名したほうが良いぐらいなのだが、17年この名前を使っていると、今更変える気にはなれないのである。カルマを背負っていくしかないのだ。

*1:本当に体調崩すからやめたほうがいい

*2:広義のインターネットではなく、インターネット老人会みたいな言葉で形容されるようなインターネット

マリ映画感想(ネタバレなし)

マリオ全部盛りセットで素晴らしかった。4DXでも観たい。一方で映画として見ると微妙というのも映画素人の私でも理解できる。評論家ニキたちへの逆風がすごくて居心地悪そうなの可哀想。

アラサー男は島崎和歌子・上沼恵美子を真に理解できるのか?

前回記事で「秋山羊子 - 狂った手」を聴いて良かったアルバムに挙げた。

このアルバムについて、親しい人に勧めてみると「私がこのアルバムの良さを理解するには若すぎる」といった趣旨の回答が返ってきた。アーティストの年齢は不明だが、経歴を見るに恐らく20歳以上は差があるだろう。事実、楽曲自体もその年齢ならではの歌詞や空気感はあるというか、20代の若造からは出てこない音楽だと思う。

ある時、母は「最近、島崎和歌子トークにものすごく共感する」といった趣旨の事を言っていた。島崎和歌子と母は世代的にはほぼ同じだろう。

私も島崎和歌子磯野貴理子、もっと言えば上沼恵美子のラインは心惹かれるものがある。積極的に出演番組を録画するほどではないものの、番組表を見て名前を発見すれば、基本的に視聴している。単純化すると私も母も島崎和歌子を好きであると言えるだろうが、「好き」の質は間違いなく大きく異なるだろう。

母が島崎和歌子を好きだと言うのは、恐らく誰が聞いても納得の行くことだろう。「共感する」と言っている通り、母が、同じ年代の同じ性別として、島崎和歌子と共通の体験・視点が多くあることは想像に難くない。一方で、私が島崎和歌子を好きだと言っても、それは「ネタで言ってるだろう」「そういうのを好きな自分に酔っているだけ」と即座にツッコまれかねない。母の世代に強烈に刺さる傾向がある語りを、年代も性別も大きく異なる人間に理解できるとは思えない、という了解が暗にありそうだ。雑に一般化すると

「ある事物について、その事物が生まれた文化背景を身を以て共有していない者は、身を以て共有している者よりその事物を深く理解できるわけがない」

ということになる。例えば第二外国語学習において「実際にその言語が話されている土地で暮らして学ぶべき」という言説は、この背景も含んでいるだろう。あるダンスミュージックについて深く理解するため、震源地に行く(ex. 本当のガバを知るためにサンダードームへ行く、FUNKOTは現場で感じないと分からない)といった行為・言説も近い話ではないか。「百聞は一見に如かず」というやつである。

”身を以て”は大事な点で、書籍などのメディアで文化背景を共有することは可能であろう。しかし、その文化圏に実際に身を投じる、あるいはその文化圏に生まれてくる事より強度のあるものにはならないのではないか、との懸念ががある。

 

ところで、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』で紹介されているエピソードに次のようなものがある。

ある時アメリカ人研究者は、イギリス人研究者から「アメリカ人研究者にシェイクスピアは理解できまい」と揶揄される。いや人間の本性は文化の違いに関わらずどこでも同じで、どこに住んでいようが万人に理解できるはずだ、ということでアメリカ人研究者は、シェイクスピアを知らないであろうアフリカのティヴ族にハムレットを読み聞かせにいったのだ。

ところが、いざ読み聞かせてみると、例えばティヴ族の文化に「亡霊」に相当するものがない(死後の生を全く信じていない)といった所で、ハムレットに出てくる「亡霊」の話に疑念が止まらない。「動く触れない死者」という考えを理解できない。いくら説明を尽くした所で溝は埋まらず、紆余曲折の末、最終的に長老が「恐らくあんたの国では死人はゾンビでなくとも歩けるのだろう」と空々しく同調するのだった。

この話は、ある本を全く読んでいなくてもそれについて真っ当な意見はできる、ということを示す文脈で語られている。

彼らの意見はハムレットを聞いたから出来上がったものというよりは、その前から彼らの世界観は既に出来上がっており、そこにハムレットが来ただけ、もっと言えばその世界観のフィルターを通した想像上のハムレットについて意見している、といった事をピエールは指摘する。これは程度の差はあれど、読み聞かせたアメリカ人研究者自身にも同じことが言える。仮にシェイクスピア本人の解釈を原点とした時、少なくともティヴ族よりはシェイクスピアの世界観に近い解釈を出来るかもしれないが、シェイクスピアではないのだから、原点からは必ず距離が生まれる。

ピエールは集団的・個人的に心に思い浮かべる事物の総体を「内なる書物」と呼ぶ。内なる書物によって、新たに出会う書物のどの要素を取り上げどう解釈するかを無意識に決定しているのだという。

つまりそこで起きているのはハムレットそのものの議論というよりは、二つの「内なる書物」の間の議論であり、ハムレットはその議論のきっかけにすぎないということとなる。

 

和歌子受容に当てはめて考えてみる(別に母と議論してはいないのだが)。母の和歌子に対する解釈≒母の内なる書物は、上の例で言うアメリカ人研究者に相当するだろう。私の解釈≒私の内なる書物はティヴ族に相当するだろう。和歌子の世界観を原点とした時、母のほうが距離が近く、私のほうが距離はずっと遠い。では、私の内なる書物を経由して見た想像上の和歌子への意見は、原点和歌子から遠い(=和歌子じゃなさすぎる)ので聞くに値しない意見なのだろうか?

ピエールはこの項の最後で、本を読んでいないティヴ族の見解について「戯画的であるとか、見るべき点がないなどと考えてはならない」と指摘する。彼らの意見の中でも亡霊の一件について「シェイクスピア批評の少数派だが活発な潮流に近い立場に身をおいてる」と言い、その潮流に属する批評家らの説を、異説だが少なくとも検討に値する仮説である、とする。そして、本を読んでいなくとも、むしろ読んでいないほうが、本を真っ当に読んでいたらもたらし得なかったかもしれない、独創的な解釈をもたらす可能性があると言う。

自分の和歌子解釈は、本流(オカン世代の解釈)からはかなり外れたものになるかもしれない。本流の解釈を重視する人からすると、やはり「ネタで言ってるだろう」となる事のほうが多いだろう。しかし、この亜流の解釈を研ぎ澄ませば、本流からはもたらし得ない聞くに値する意見になる可能性はあるのではないだろうか?そして聞くに値する亜流解釈を本流解釈にぶつけることで、本流の解釈だけではたどり着けない境地に進歩させ、和歌子理解をより豊かなものにすることができるのではないか?本流に位置することが不可能なら、本流に近づこうとするのではなく、亜流をより突き詰めていくと道が開かれるのではなかろうか。そうすると、次に考えることは、亜流の解釈の研ぎ澄まし方、となってくるだろう。

「本流の理解」を真の理解とするならば、アラサー男は島崎和歌子上沼恵美子を真に理解するのは困難。でも「本流」は「本流」であって「和歌子・恵美子」そのものではない。「本流」では知り得ない「和歌子・恵美子」を理解することは、亜流にできる事。

 

誤解なきよう注意したいのは、だからといって先人の積み上げた知識体系(特に本流)を疎かにしてもいいという訳ではない、というのはよく言う話。素人が「変に知らない方がオリジナリティが出る」と言って出来上がるのは往々にして先人の既に通った道なので、そういう方向に拡げないように、ナメてかからないように。