おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

アラサー男は島崎和歌子・上沼恵美子を真に理解できるのか?

前回記事で「秋山羊子 - 狂った手」を聴いて良かったアルバムに挙げた。

このアルバムについて、親しい人に勧めてみると「私がこのアルバムの良さを理解するには若すぎる」といった趣旨の回答が返ってきた。アーティストの年齢は不明だが、経歴を見るに恐らく20歳以上は差があるだろう。事実、楽曲自体もその年齢ならではの歌詞や空気感はあるというか、20代の若造からは出てこない音楽だと思う。

ある時、母は「最近、島崎和歌子トークにものすごく共感する」といった趣旨の事を言っていた。島崎和歌子と母は世代的にはほぼ同じだろう。

私も島崎和歌子磯野貴理子、もっと言えば上沼恵美子のラインは心惹かれるものがある。積極的に出演番組を録画するほどではないものの、番組表を見て名前を発見すれば、基本的に視聴している。単純化すると私も母も島崎和歌子を好きであると言えるだろうが、「好き」の質は間違いなく大きく異なるだろう。

母が島崎和歌子を好きだと言うのは、恐らく誰が聞いても納得の行くことだろう。「共感する」と言っている通り、母が、同じ年代の同じ性別として、島崎和歌子と共通の体験・視点が多くあることは想像に難くない。一方で、私が島崎和歌子を好きだと言っても、それは「ネタで言ってるだろう」「そういうのを好きな自分に酔っているだけ」と即座にツッコまれかねない。母の世代に強烈に刺さる傾向がある語りを、年代も性別も大きく異なる人間に理解できるとは思えない、という了解が暗にありそうだ。雑に一般化すると

「ある事物について、その事物が生まれた文化背景を身を以て共有していない者は、身を以て共有している者よりその事物を深く理解できるわけがない」

ということになる。例えば第二外国語学習において「実際にその言語が話されている土地で暮らして学ぶべき」という言説は、この背景も含んでいるだろう。あるダンスミュージックについて深く理解するため、震源地に行く(ex. 本当のガバを知るためにサンダードームへ行く、FUNKOTは現場で感じないと分からない)といった行為・言説も近い話ではないか。「百聞は一見に如かず」というやつである。

”身を以て”は大事な点で、書籍などのメディアで文化背景を共有することは可能であろう。しかし、その文化圏に実際に身を投じる、あるいはその文化圏に生まれてくる事より強度のあるものにはならないのではないか、との懸念ががある。

 

ところで、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』で紹介されているエピソードに次のようなものがある。

ある時アメリカ人研究者は、イギリス人研究者から「アメリカ人研究者にシェイクスピアは理解できまい」と揶揄される。いや人間の本性は文化の違いに関わらずどこでも同じで、どこに住んでいようが万人に理解できるはずだ、ということでアメリカ人研究者は、シェイクスピアを知らないであろうアフリカのティヴ族にハムレットを読み聞かせにいったのだ。

ところが、いざ読み聞かせてみると、例えばティヴ族の文化に「亡霊」に相当するものがない(死後の生を全く信じていない)といった所で、ハムレットに出てくる「亡霊」の話に疑念が止まらない。「動く触れない死者」という考えを理解できない。いくら説明を尽くした所で溝は埋まらず、紆余曲折の末、最終的に長老が「恐らくあんたの国では死人はゾンビでなくとも歩けるのだろう」と空々しく同調するのだった。

この話は、ある本を全く読んでいなくてもそれについて真っ当な意見はできる、ということを示す文脈で語られている。

彼らの意見はハムレットを聞いたから出来上がったものというよりは、その前から彼らの世界観は既に出来上がっており、そこにハムレットが来ただけ、もっと言えばその世界観のフィルターを通した想像上のハムレットについて意見している、といった事をピエールは指摘する。これは程度の差はあれど、読み聞かせたアメリカ人研究者自身にも同じことが言える。仮にシェイクスピア本人の解釈を原点とした時、少なくともティヴ族よりはシェイクスピアの世界観に近い解釈を出来るかもしれないが、シェイクスピアではないのだから、原点からは必ず距離が生まれる。

ピエールは集団的・個人的に心に思い浮かべる事物の総体を「内なる書物」と呼ぶ。内なる書物によって、新たに出会う書物のどの要素を取り上げどう解釈するかを無意識に決定しているのだという。

つまりそこで起きているのはハムレットそのものの議論というよりは、二つの「内なる書物」の間の議論であり、ハムレットはその議論のきっかけにすぎないということとなる。

 

和歌子受容に当てはめて考えてみる(別に母と議論してはいないのだが)。母の和歌子に対する解釈≒母の内なる書物は、上の例で言うアメリカ人研究者に相当するだろう。私の解釈≒私の内なる書物はティヴ族に相当するだろう。和歌子の世界観を原点とした時、母のほうが距離が近く、私のほうが距離はずっと遠い。では、私の内なる書物を経由して見た想像上の和歌子への意見は、原点和歌子から遠い(=和歌子じゃなさすぎる)ので聞くに値しない意見なのだろうか?

ピエールはこの項の最後で、本を読んでいないティヴ族の見解について「戯画的であるとか、見るべき点がないなどと考えてはならない」と指摘する。彼らの意見の中でも亡霊の一件について「シェイクスピア批評の少数派だが活発な潮流に近い立場に身をおいてる」と言い、その潮流に属する批評家らの説を、異説だが少なくとも検討に値する仮説である、とする。そして、本を読んでいなくとも、むしろ読んでいないほうが、本を真っ当に読んでいたらもたらし得なかったかもしれない、独創的な解釈をもたらす可能性があると言う。

自分の和歌子解釈は、本流(オカン世代の解釈)からはかなり外れたものになるかもしれない。本流の解釈を重視する人からすると、やはり「ネタで言ってるだろう」となる事のほうが多いだろう。しかし、この亜流の解釈を研ぎ澄ませば、本流からはもたらし得ない聞くに値する意見になる可能性はあるのではないだろうか?そして聞くに値する亜流解釈を本流解釈にぶつけることで、本流の解釈だけではたどり着けない境地に進歩させ、和歌子理解をより豊かなものにすることができるのではないか?本流に位置することが不可能なら、本流に近づこうとするのではなく、亜流をより突き詰めていくと道が開かれるのではなかろうか。そうすると、次に考えることは、亜流の解釈の研ぎ澄まし方、となってくるだろう。

「本流の理解」を真の理解とするならば、アラサー男は島崎和歌子上沼恵美子を真に理解するのは困難。でも「本流」は「本流」であって「和歌子・恵美子」そのものではない。「本流」では知り得ない「和歌子・恵美子」を理解することは、亜流にできる事。

 

誤解なきよう注意したいのは、だからといって先人の積み上げた知識体系(特に本流)を疎かにしてもいいという訳ではない、というのはよく言う話。素人が「変に知らない方がオリジナリティが出る」と言って出来上がるのは往々にして先人の既に通った道なので、そういう方向に拡げないように、ナメてかからないように。