おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

作品を説明するのは良くないことか

前回の更新から4ヶ月。ブログ以外には自分の考えている事を長文で述べる機会がないので、たまには更新しないと書き筋が衰えると思い、キーボードを叩き始める。

直近のニュース

valkneeさんに楽曲提供した「OG」が収録されている1stアルバム「Ordinary」が出ました。いいアルバムだと思います。ワンピース見すぎてスケジュールやばくなるの私も分かります。知ってか知らずか2曲目に私の中学時代からの友人であるSEKITOVAがいるのも良いですね。曲もビジュアルに合っててめっちゃ良かったです。ぜひ聴いてください。

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ちなみに、リリース同日には宇多田ヒカルのアルバムや、ナオト・インティライミの10thアルバムも出ています⚽️

私個人も、アルバムかEPになるか分かりませんが作り始めてます。今年か来年リリースできたらいいな。今回はフィジカルリリースがメインになる予感です。

本題

最近ツイッターで流れてきた菅実花さんの「美術作品の制作と研究の関係性について─芸術実践論文(美術)の分析を通して」という論文を見た。東京藝術大学社会連携センター紀要 arts+Vol.1(2023/03/31発行)のpdfで読める。

述べられているのは藝大における博士論文の話。絵画や工芸など実技を重視するコースでは、芸術実践(作品制作)をしながら並行して学問的な研究をし、博論に仕上げるということになっているようだ。己の芸術実践を論拠に新しい知見を示すor己の芸術実践の意義を求める形態の論文(芸術実践論文)が通例のようだ。この制作と研究の関連性、その意義を明らかにするのが上論文であるが、その点についてはもうpdfを見てもらうことにしよう。このブログでは論文の論点からはズレた話をする。

さて、理工系で応用寄りの修士を出た私のケースを言うと、社会課題や先行研究群への批判的検討をもとに、新たなシステムを開発し、被験者実験などを行なってデータを取り、データを元に言える新しい知見(システムそのものの有用性・特性、実験を通じて分かったヒトの特性)を述べるというのが修士研究の大まかな流れだ。あくまでも論文がそういう流れというだけで、実態はシステムを試作してみてから先行研究をまた収集して提案システムの方向性を修正して…と行ったり来たりする部分もあるのだが。なんにせよこの修論のフローは学士でも博士でも分量が違うだけで大体が同じだと思われる。純粋数学とか理論物理とかは若干異なる部分があると思う。

この「システムの開発」の部分が作品制作に相当するように見えるかもしれないが、芸術実践の難しいところは、論文を通した言語化によって作品自体に何かしらの影響があることだろう。上論文内でもデメリットとして「論文を通して作品や制作を言語化した結果、作品が以前のものと比べて観念的で説明的になってしまう」というものが挙げられている*1。理工系の私のケースでは、システムに何らかの影響があろうが別にいいというか、システムの良し悪しは論文の結論と大方直結するが、芸術の場合はそうはいかないだろう。作品を論拠に新知見を示すパターンだろうが、作品の意義を求めるパターンだろうが、論文の結論が良いからといって芸術作品としても良いものだとはなりにくいと思われる(逆も然り)。後者のパターンは、どうやら作品発表と論文の提出の締め切りが同時期であるというスケジュールの問題で、鑑賞者の反応や批評を論拠にできない(=主観・予測で作品の見え方について書かざるを得ない)ということも強く影響しそうだが……。

 

話を逸らすが、学問的な問題に限らず、作品を言語で説明することについてをテーマに少し書きたい。

音楽のような聴覚作品にせよ絵画・彫刻などの視覚作品にせよ、作品内容について文章で説明するという瞬間がある。批評や感想文などのような他者からの説明もあれば、ステートメントやセルフライナーノーツのように作者本人が説明することもある。

ただ、作品について言語化する事に否定的な見方というものがどうもよくあるようだ。上論文でも次のようなことが語られている*2

美術大学の実技系専攻の学生の多くは、作品制作等の実技に比べて、文章を書くことを苦手としている。専攻の課題のほとんどは実技による成果のみが求められ、提出の際に言葉によるプレゼンテーションや解説文を付け足すと「作品がものとして語ることができていない。クオリティが低いことの証明になっている」と批判されることも多い。そのため、博士課程で芸術実践論文に取り組む際にも、「言葉では伝わらないから作品を制作しているのに」、「文章で説明できる作品は良いものではない」などという免罪符を用いる傾向にある。

これらに近い言説は、美大に限らず、私の周りの、アカデミズムとは関係のない所で音楽などを制作・表現をしている人たちから聞くこともある。

先にはっきり言っておくが、私のスタンスは基本的に「作者も言葉で説明する努力はして良い」というものである。その理由とともに、上の3つ言説

  • 「文章で説明できる作品は良いものではない」
  • 「言葉では伝わらないから作品を制作しているのに」
  • 「作品がものとして語ることができていない。クオリティが低いことの証明になっている」

についてサラッと語ろう。

「文章で説明できる作品は良いものではない」は、これを作家側が言うのであればハッキリ言って誤謬というか、順序が間違っていると思う。「文章で説明できない良い作品」というのは、出来上がった作品について、努力を尽くして説明を試みても、伝わりやすい文章化が困難だから作品が良く見えるのだと私は思う。コンセプトが良いことを重視する西洋現代アート的な視座ならば、文章で説明できる内容を作品で表現することの意義は、確かに薄いかもしれない。ただこの誤謬の言説は「作品が悪かったら嫌だから文章で説明しない」と言っているに等しいのではないか。判断から逃げている。悪い作品か良い作品かの決定を先送りにしているだけだと思う。説明はできなくても説明する努力はできる。もし決定されたくないのであれば、主語のでかい変な免罪符を使わずに堂々とそう言えばいいと思う。(いや、それはそれでダサく見えてしまうかもしれないが……)

「文章で説明できる作品は良いものではない」を、作家ではなく鑑賞者の目線から言ったのが「作品がものとして語ることができていない。クオリティが低いことの証明になっている」ではないか。実際、説明が雄弁だが作品の内容が伴ってないことは往々にしてあり、言われたら悔しいかもしれないが、判断から逃げなかった分、私はものとして語ることができなかった作品も判断から逃げた作品よりは評価したい(何様だ?)。

「言葉では伝わらないから作品を制作しているのに」、けど伝える努力はしてみていいと思う。作品内の言葉で伝わらないものというのは、言語で説明するには複雑すぎる概念と、視聴覚でのみ感じ取ることができる特有のリズムというのがあると思う*3。特に後者にあっては、それを言葉で伝えようとして文を書いたところで、どうせ文から読み取れるもの=作品の内容というふうに完全に一致することはないと思う。言葉で伝えるのが苦手なら尚更だ。むしろ、文章の内容をとっかかりにして作品の内容をより理解することができる可能性はないか?ステートメントというのは、そのためにもあるんじゃないのだろうか。逆に、作品が文章の伝わらなさを補填するものであってもいいのではないか(多分、多くの作家はそれを嫌がる気もするが)。

 

あくまで努力していいというだけで、敢えて出さない選択肢とか、変な伝え方をする選択肢はあって良いと思う。下手な説明をすることによって、作者としてなんとなく伝わってほしい感覚の伝達に歪みがかかってしまう(だからしない)ケースや、作者のキャラクターと作品が深く繋がっており説明行為によってキャラクターが損なわれる(よって作品の良さも損なわれる)ケースというのもある。鑑賞者の感受性にフルベットしたいので説明を省くケースもあるだろう。

感じ方は人それぞれとはいえ、作家・鑑賞者問わず影響力の大きい説明があると、良くも悪くもバイアスがかかって見方が固定されがちだ。「あ、これあの人の言ってた感想の影響受けすぎな感想だな」と思わされたことは私もあるし、私もそういうこと言う時があるだろう。

ただ、そんな意図があろうとなかろうと、説明文を一度書いてみてからそういう選択肢を取るのと、文を書く前から免罪符的にそういう選択肢を取るのとでは質が違う。文を書くプロセスもないままに作品を作って、結局実は文で全部説明できちゃうような作品だったら、どう思うか。

 

さて、こういうことを言っているが、最近の自分は説明をしすぎて悪くなってるパターンの可能性がある。うるさい人の作品を見ても、うるささがチラついてブチアガりにくい、という思いも割と理解できる。沈黙は金というやつか。でもこれは黙ってたほうがいい時もあり、その時を自分は見極めるべきだという話で、黙ってることがずっといいということもないと思う。

*1:pp.17 表9

*2:pp.9

*3:千葉雅也のセンスの哲学を最近読んでたのでリズムという言い方をした。読んでください