おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

「やってくる」読了

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半年近く前からGPY先生のやってくるをダラダラ読んでて、時に放ったらかしにしながら、やっと一通り読み終えた。

GPY先生の文章の中では平易なほうであるかもしれないが、多くの人がそう述べるようにやはり難解であった。何かまた別の経験を積んでからもう一度読んで、また別の経験を積んでからもう一度読んで、理解を深めるしかなさそう。

GPY先生は、様々な分野の知識や、常人の身にはなかなか起きないであろう経験をたくさん援用して、「問題と解答の間にズレを生じさせて文脈を逸脱」「外部を召喚する、受け入れる」「人工知能に対する天然知能」を読者に伝えようとしてくる。これは、一節読むとああなるほど、こういう事なのかもしれない、という気持ちにさせるのだが、次の節を読んだ途端、いや、次の段落を読む頃には「ああなるほど分からん」となるのである。そしてまた「ああなるほど」がやってきて、また「なるほど分からん」がやってくるのである。直観的に、この本の書き方自体が「やってくる」を体現しているのだと思わされる。

GPY先生については、数学的にデタラメなことを書いている(衒学的)といった批判もあることは確かで、GPY先生の用いる既存の学術について、厳密に知りたければ他の易しい説明をしてくれる人の書籍で勉強したほうがよいのかもしれないと思った。でも自分はGPY先生の書籍にそういった厳密な議論は求めてなくて、これは一旦バイブスと理性を行き来しながら読むものだと思う。

 

最近、広い意味での「コミュニケーション」について考えることが多い。この頃はコミュニケーションとは「無限遠で絶対に真の意味で理解することはできない"他者"を、それでも理解しようと前進する働き」だと単純化して考えていたのだけど、それは極めてGPY先生の言う「人工知能的」な考え方なのかもしれないと猛省した。

 

もっと整理して書きたいことが山ほどあるのだけど、今ここで時間と頭をいたずらに浪費するのはアンチ・コスパ/タイパ主義の自分ですら違うと思ったので、とりあえず外部を呼び込める作品を生み出せるよう頑張りまーすということで〆