おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

サンプリングを再考する part.I

サンプリング、ナードコアテクノと私

私が人生で初めてコンピュータで作った曲は、ダイヤルアップ接続音のmp3ファイルをカットアップした簡素なテクノだったと記憶しています。楽譜を書いたり、MIDIを打ち込んだりと当時から様々な作曲方法があるなかで、サンプリング・カットアップでもって活動を開始したのは、それまで制作に励んでいた「音MAD」の影響が多分にあると考えます。決して「サンプリング」という手段の性質に自覚的な状態で、俯瞰した状態で始めたわけではなく、ただただ中学生の直観で道具を選んだ、あるいは環境に選ばされた結果だったと回想します。

そこから私はおよそ10年にわたり、日本の「ナードコアテクノ」に影響を受けた制作やライブ活動を行ってきました。私が指し示す「ナードコアテクノ」については、以下のイアンの記事やNordOstさんの記事などでもって把握して頂けると良いと考えます。特にナードコアを「好きすぎるものへの愛情をテクノミュージックを通して見せつけたい気持ちで作られた音楽」とする解釈は、後のアートにおけるサンプリングとの比較において出てくるので、覚えてほしいポイントでもあります(もちろん、これに該当しないナードコアテクノも多分にあります)。

chigai.pico2culture.jp

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さて、ここ数年私は「ナードコアテクノ」の基盤を感じさせる直接的な表現や手法をあまり用いなくなってきました。特に、特定のアニメ・ゲーム・TV・その他カルチャーを露骨にサンプリングした表現も、2019年以前に比べて頻度が極めて減りました。完全に脱却したわけではないことはTwitterのアイコンなどからも自明な事ですが……。元から自分をナードコアテクノだと標榜したことはあまりありませんが、分かりやすく「ナードコアテクノ」を踏襲した音楽はここ数年発表しておりません。

その要因は一つではなく、多くの要因が複雑に絡み合っているので、コレ!と言えるものではありません。ナードコアテクノやサンプリングが嫌いになったとかではないということは明記しておきます。

これから論じていきたい事に焦点を合わせるべく、(そして何を書きたかったのか自分が忘れないように)その要因のキーワードをかいつまんで述べます。

  • サンプリングの暴力性とサンプリング・ネイティブ世代の葛藤
  • 2020年代のサンプリングに対する深い欲求不満
  • サンプリングの持続可能性
  • サンプリングと商業
  • サンプリングの延命

このように文字列を抜き出して並べると、単純に今更サンプリングに絶望してしまって終わっているだけの、厭世だけで終わってしまってるだけの人のような印象を与えてしまってよくないですね。確かにサンプリングの今に一部絶望している側面はあります。しかし私はたかだか活動歴13年ほどではありますが、活動のほとんどをサンプリングに依拠してきました。もっと広義に、「ある制作物の全体・部分を略奪して新しい制作物を作る」という方法論で見れば、幼少期から慣れ親しんできたと言えます。だから、サンプリングへの思いはそれなりに強く、これからのサンプリングのあり方を考えたいという気持ちがあるのです。

これから述べていく事を、音楽のような良くも悪くもかなりの曖昧さを持つ形式のみで、多くを伝えるのは困難であると考えます(これは私の敗北宣言です)。従ってテキスト、加えて今後の展開次第では、他の表現形式でもって自分自身と皆さんにお尋ねしたいと考えています。

次回に続く