おたくのテクノ

ピアノ男(notピアノ弾き)のブログ

ピアノ男 掲示板に戻ってきてくれ

今は仕事を完全に家でリモートでやっている*1。全くの無音だと発狂しそうになるけど、音楽をかけると聴き込んでしまうので、いつもBGM代わりにテレビを垂れ流しにしている。テレビだって見入ってしまうと思いきや、意外と実家時代の慣習が身についているのか、音楽以上にBGMとして受け入れられる。

さて、なぜなのか分からないが、昼間にカンテレで電車男が再放送されていた。昼食休憩にして、少し視聴してみる。今となっては時代遅れを通り超えて古典レベルのヲタク像。無理もない、驚くべきことにもう18年も前の作品である。にもかかわらず劇団ひとりはあまり今と変わらない印象で二重に驚き……

 

「ピアノ男」は、小学5年生頃からインターネット上でのHNとして使用している名前だ。電車男は言わずもがな由来の一つである。放映当時小学4年生であった私は、2ちゃんねるや面白フラッシュ、アスキーアートを知ってドハマりしていた。リアルとセルアウトの違いが分かるわけない私は、当然電車男にも熱中したのであった。9時には寝るよう義務付けられていたので、リアルタイムで見れた回数は少ないのだが……。

今改めて電車男に触れ「ピアノ男」という名前について考えてみる。

由来は名前をつけた当時電車男が好きだったのと、当時ピアノにハマっていたからつけた、と昔から公言している。

だが、そもそもピアノは大して弾けるわけでもないし、ピアノに関してマニアでもない。さらに言えば電車男が好きかと言われるとそれも微妙だ。

電車男放映当時(2005年)は、2ちゃんねるネタやAAをインターネット以外の場で摂取できる事に価値を強く感じていた。地上波で爆笑問題太田が2ちゃんねるに言及してると嬉しかったし、本屋で2ちゃんねる本があると立ち読みした。田舎の10歳の2ちゃんファンとはそういうものだ。パソコンができる時間は制限されており、掲示板そのものを深堀りはできない。2ちゃんネタに餓えていたのだ。電車男も2ちゃんネタ摂取のためだ。だから電車男が好きというよりは、電車男に出ている2ちゃんネタ・AA・ヲタクが好きだった。ストーリーなんかは10歳の自分にはあまり理解できない話だったと思う。

電車男を改めて視聴してみると、恐らく2005年当時から見ても古典的なラブストーリーで、古典的であることの良し悪しはともかくとして、エルメスタソが電車男に惹かれていく過程は都合が良すぎて結構厳しいものがある。電車男のブーム自体がヲタクへの偏見・固定観念を加速させた、という思い込みもあって放映後数年間は個人的に電車男への嫌悪感もあった覚えがある。というわけで電車男は多分あんまり好きじゃない。

さらに言えば、2ちゃん(5ちゃん)自体があまり好きじゃなくなってきたというか。数年前まで散々2ちゃんやおもしろフラッシュ発祥のネタに影響を受けた制作をしてきてて言うのもなんだけど、「インターネット系」として自分が括られることに拒否反応が出つつある。「インターネットやめろ」「ここはひどいインターネッツですね」などの言葉に見られるように、そもそも「インターネット」*2をやっている人はインターネットに対して自嘲的な傾向があるのだが、今やそういう自嘲的な空気感も込みで拒否反応がある。ていうか「インターネット系」って、めっちゃバカにされてるような言葉に感じる。なぜバカにされてると感じるのかと言うとまだ説明できないのだが……。

 

というわけで、ピアノ男という名を名乗るにはあまりにも実態と乖離があるし、ピアノを弾ける人だと思われる弊害がかなりデカいので早く改名したほうが良いぐらいなのだが、17年この名前を使っていると、今更変える気にはなれないのである。カルマを背負っていくしかないのだ。

*1:本当に体調崩すからやめたほうがいい

*2:広義のインターネットではなく、インターネット老人会みたいな言葉で形容されるようなインターネット

アラサー男は島崎和歌子・上沼恵美子を真に理解できるのか?

前回記事で「秋山羊子 - 狂った手」を聴いて良かったアルバムに挙げた。

このアルバムについて、親しい人に勧めてみると「私がこのアルバムの良さを理解するには若すぎる」といった趣旨の回答が返ってきた。アーティストの年齢は不明だが、経歴を見るに恐らく20歳以上は差があるだろう。事実、楽曲自体もその年齢ならではの歌詞や空気感はあるというか、20代の若造からは出てこない音楽だと思う。

ある時、母は「最近、島崎和歌子トークにものすごく共感する」といった趣旨の事を言っていた。島崎和歌子と母は世代的にはほぼ同じだろう。

私も島崎和歌子磯野貴理子、もっと言えば上沼恵美子のラインは心惹かれるものがある。積極的に出演番組を録画するほどではないものの、番組表を見て名前を発見すれば、基本的に視聴している。単純化すると私も母も島崎和歌子を好きであると言えるだろうが、「好き」の質は間違いなく大きく異なるだろう。

母が島崎和歌子を好きだと言うのは、恐らく誰が聞いても納得の行くことだろう。「共感する」と言っている通り、母が、同じ年代の同じ性別として、島崎和歌子と共通の体験・視点が多くあることは想像に難くない。一方で、私が島崎和歌子を好きだと言っても、それは「ネタで言ってるだろう」「そういうのを好きな自分に酔っているだけ」と即座にツッコまれかねない。母の世代に強烈に刺さる傾向がある語りを、年代も性別も大きく異なる人間に理解できるとは思えない、という了解が暗にありそうだ。雑に一般化すると

「ある事物について、その事物が生まれた文化背景を身を以て共有していない者は、身を以て共有している者よりその事物を深く理解できるわけがない」

ということになる。例えば第二外国語学習において「実際にその言語が話されている土地で暮らして学ぶべき」という言説は、この背景も含んでいるだろう。あるダンスミュージックについて深く理解するため、震源地に行く(ex. 本当のガバを知るためにサンダードームへ行く、FUNKOTは現場で感じないと分からない)といった行為・言説も近い話ではないか。「百聞は一見に如かず」というやつである。

”身を以て”は大事な点で、書籍などのメディアで文化背景を共有することは可能であろう。しかし、その文化圏に実際に身を投じる、あるいはその文化圏に生まれてくる事より強度のあるものにはならないのではないか、との懸念ががある。

 

ところで、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』で紹介されているエピソードに次のようなものがある。

ある時アメリカ人研究者は、イギリス人研究者から「アメリカ人研究者にシェイクスピアは理解できまい」と揶揄される。いや人間の本性は文化の違いに関わらずどこでも同じで、どこに住んでいようが万人に理解できるはずだ、ということでアメリカ人研究者は、シェイクスピアを知らないであろうアフリカのティヴ族にハムレットを読み聞かせにいったのだ。

ところが、いざ読み聞かせてみると、例えばティヴ族の文化に「亡霊」に相当するものがない(死後の生を全く信じていない)といった所で、ハムレットに出てくる「亡霊」の話に疑念が止まらない。「動く触れない死者」という考えを理解できない。いくら説明を尽くした所で溝は埋まらず、紆余曲折の末、最終的に長老が「恐らくあんたの国では死人はゾンビでなくとも歩けるのだろう」と空々しく同調するのだった。

この話は、ある本を全く読んでいなくてもそれについて真っ当な意見はできる、ということを示す文脈で語られている。

彼らの意見はハムレットを聞いたから出来上がったものというよりは、その前から彼らの世界観は既に出来上がっており、そこにハムレットが来ただけ、もっと言えばその世界観のフィルターを通した想像上のハムレットについて意見している、といった事をピエールは指摘する。これは程度の差はあれど、読み聞かせたアメリカ人研究者自身にも同じことが言える。仮にシェイクスピア本人の解釈を原点とした時、少なくともティヴ族よりはシェイクスピアの世界観に近い解釈を出来るかもしれないが、シェイクスピアではないのだから、原点からは必ず距離が生まれる。

ピエールは集団的・個人的に心に思い浮かべる事物の総体を「内なる書物」と呼ぶ。内なる書物によって、新たに出会う書物のどの要素を取り上げどう解釈するかを無意識に決定しているのだという。

つまりそこで起きているのはハムレットそのものの議論というよりは、二つの「内なる書物」の間の議論であり、ハムレットはその議論のきっかけにすぎないということとなる。

 

和歌子受容に当てはめて考えてみる(別に母と議論してはいないのだが)。母の和歌子に対する解釈≒母の内なる書物は、上の例で言うアメリカ人研究者に相当するだろう。私の解釈≒私の内なる書物はティヴ族に相当するだろう。和歌子の世界観を原点とした時、母のほうが距離が近く、私のほうが距離はずっと遠い。では、私の内なる書物を経由して見た想像上の和歌子への意見は、原点和歌子から遠い(=和歌子じゃなさすぎる)ので聞くに値しない意見なのだろうか?

ピエールはこの項の最後で、本を読んでいないティヴ族の見解について「戯画的であるとか、見るべき点がないなどと考えてはならない」と指摘する。彼らの意見の中でも亡霊の一件について「シェイクスピア批評の少数派だが活発な潮流に近い立場に身をおいてる」と言い、その潮流に属する批評家らの説を、異説だが少なくとも検討に値する仮説である、とする。そして、本を読んでいなくとも、むしろ読んでいないほうが、本を真っ当に読んでいたらもたらし得なかったかもしれない、独創的な解釈をもたらす可能性があると言う。

自分の和歌子解釈は、本流(オカン世代の解釈)からはかなり外れたものになるかもしれない。本流の解釈を重視する人からすると、やはり「ネタで言ってるだろう」となる事のほうが多いだろう。しかし、この亜流の解釈を研ぎ澄ませば、本流からはもたらし得ない聞くに値する意見になる可能性はあるのではないだろうか?そして聞くに値する亜流解釈を本流解釈にぶつけることで、本流の解釈だけではたどり着けない境地に進歩させ、和歌子理解をより豊かなものにすることができるのではないか?本流に位置することが不可能なら、本流に近づこうとするのではなく、亜流をより突き詰めていくと道が開かれるのではなかろうか。そうすると、次に考えることは、亜流の解釈の研ぎ澄まし方、となってくるだろう。

「本流の理解」を真の理解とするならば、アラサー男は島崎和歌子上沼恵美子を真に理解するのは困難。でも「本流」は「本流」であって「和歌子・恵美子」そのものではない。「本流」では知り得ない「和歌子・恵美子」を理解することは、亜流にできる事。

 

誤解なきよう注意したいのは、だからといって先人の積み上げた知識体系(特に本流)を疎かにしてもいいという訳ではない、というのはよく言う話。素人が「変に知らない方がオリジナリティが出る」と言って出来上がるのは往々にして先人の既に通った道なので、そういう方向に拡げないように、ナメてかからないように。

最近聴いて良かった曲 20230427

何を聴いてるとかそういう話は、この頃は直接会った人とその手の話題になった時にしかしていなかった。そもそもあまり音楽を聴いていないし。だが、作家の立場からしたら、目に見える形で言及してもらえるのは励みになる部分もあるよなぁと思い直し、今後は書いていくことにした。批評家・評論家ではないので、感想程度。

以下は最近聴いて良かった曲やアルバム。

秋山羊子 - 狂った手

狂った手 (feat. Kazutoki Umezu)

狂った手 (feat. Kazutoki Umezu)

  • 秋山羊子
  • J-Pop
  • ¥1528

music.apple.com

日本のサックス奏者の曲を探していたら見つけた。秋山さん自身はサックス奏者ではなく、全編通してサックス奏者の梅津和時さんが参加している。

苦労してそうな人の音楽に最近なぜか惹かれる。弾き語りにSAXの組み合わせも最高。

ただ自分ぐらいの歳の人が、島崎和歌子上沼恵美子を真の意味で、身に染みて、例えるならオカンの目線より深く理解することは困難なのと同じで、多分秋山さんの意図してる所をストレートに汲み取ることはできていないのかもしれない。多分オルタナティブな解釈をしている。このことに関しては、長くなるので別の記事でまた書くことにしたい。

aus - Everis

music.apple.com

15年ぶりリリースとあるように、自分が知った頃には作品は特に出ていなかったというところで、告知を見たときは山口百恵が新譜出すみたいな驚きがあった。

関わってる人の多さ、ametsub氏の事件を経てという経緯、15年というロングスパン、これだけでも結構でかい話だが、曲もそれに相当するだけの地層の厚さを感じた。1~3曲目の流れにめちゃくちゃ食らってしまった。聴いた曲をすぐ忘れる自分でも覚えてしまった。曲間が繋がっているものに自分は弱い。

Young Smoke - Space Zone

Space Zone

Space Zone

  • Young Smoke
  • エレクトロニック
  • ¥1528

music.apple.com

知らなかったのだが、ブックオフPlanet Muという文字を見て即購入。これが2012ってマジか……。このジャケットみたいな典型的な宇宙空間的青さを持ったFootworkという感じで、FootworkってTeklife的なのしか知らなかったので新鮮だった。これをきっかけにまたTraxmanとか聴いている。自分がガバしか知らない学生だった頃とはまた聴こえ方が違って、ブチ上がるのとはまた違うビターな味わいが分かってくる。

ヨルシカ - Telepath

music.apple.com

自分が普段聴く音楽からはかなり遠いバンド。この曲はBGMのノリでつけてたテレビから流れてきた深夜アニメで知った。ぶっちゃけアニメのことよく知らないのだが、前向きなアンニュイさとでも言うか、静かな熱さとでも言うか、、分からんけどイメージにすごく合ってた。イントロ-Aメロだけずっと聴いてたい。中高生ぐらいの時に、BS11で目当ての日常系アニメが始まる前についでに観てたハードコアなアニメのイデアの空気を何故か感じる。

Ambassadors of Funk - Super Mario Compact Disco

Super Mario Compact Disco (feat. M.C. Mario)

Super Mario Compact Disco (feat. M.C. Mario)

  • Ambassadors of Funk
  • ポップ
  • ¥1681

music.apple.com

最近というか正直ずっと前からSupermariolandは聴いてたのだが。最近マリオに対する熱が強くなってきて、久々に聴いてたらアルバムの存在を知る。

年代が年代なのでブートで勝手にやってるものだとずっと思っていたのだけど、調べると実はちゃんと宮本氏に許可をとったものとのことで、その熱意に心を動かされた。、今なら絶対できないだろうな……。時代の奇跡とでもいうか。

スーファミ期のマリオ観をちゃんと抑えつつ、この頃のヒップハウスの悪気のなさも相まって素晴らしいアルバム。MVも必見。

 

 

またなんか聴いたら書きます

音ゲーとTTHW

引越すことがほぼ確定してるような状態になったので、身軽にしようと思い、家にある物をいくらかリサイクルショップで手放している。引越し資金の足しにもしたいし。

時間にはまだ少し余裕があるので、ヤフオクやメルカリで手放すほうがリターン的にも良いのだろうが、小心者ゆえ対個人の取引に抵抗があり、積極的にリサイクルショップを活用している。

 

今回はビートマニア(以下ビーマニ)のコントローラを手放すことにした。ここ数年で販売されている、家庭用のエントリーモデルだ。ビーマニは、PS2でのリリースを最後にコンシューマ向けではソフトが発売されておらず、このモデルが販売されるまで長らく公式には供給が止まっていた状態であった。従って、PS2用のエントリーモデルですら中古市場価格が高騰していたのだ。それが2019年頃だったか、iOSアプリでビーマニがリリースされ、それに伴ってBluetooth接続機能などが追加される形で、公式からいよいよコントローラが再販される流れとなった。

中学生の終盤で5鍵時代の初代ビーマニに出会い、以来大学生前半頃まで夢中になってやっていた(SP9段、DP8段)。このゲームは多くのDJやプロデューサの音楽観に影響を与えていて、例に漏れず自分もその一人である。元の元を辿れば音MADなのだが、自分がガバやハッピーハードコアを制作するに至ったのは、この経験が大きい。ビーマニでプレイする曲も、もっぱらDJ TECHNORCHkors k、L.E.D.-G、M-Projectらの180-200BPMの楽曲が多かった。

さて、公式にコントローラが再販されると聞いて当然ながら飛びついたのだが、実はこの頃には少なくともゲームセンターではプレイしていなかった。就職してプレイ時間がそもそも学生の頃ほど取れなくなったし、音楽の嗜好性も幾分か変わってしまったのである。ゲームするより何か物作ってたほうが楽しい時期でもあった。数回はプレイしたものの、結局押入れ行きとなってしまった。

ビーマニのみならず音ゲーは、かつて社員といくらかの外注で楽曲が揃えられていた。ここ数年はより裾野が広がり、同人音楽出身の人やasiaなどのクラブで活躍している人たちの参入が散見される。自分の知り合いも多数音ゲーに収録されているのを見ている。もし自分がまだ音ゲー音楽に熱中していて、音ゲー向きの楽曲を作っていたら、見える世界は変わっていたのだろうか?と時々思う。

 

音ゲーの話が長くなってしまった。コントローラ売却の話に戻す。コントローラをリサイクルショップに持参するのは、運転免許なしの自分には辛いので、リサイクルショップが提供しているオンライン買取アプリを利用した。*1商品の写真を撮り、査定に出す。すると、全国のチェーン店舗から買取依頼がコメント・査定額とともに5件まで届くのだ。

数回しか使用していないので状態は良い。付属品も揃っている。査定に出した。すると、感動的なことが起きた。

どう考えても機械的ではない熱の入ったコメント・リサイクルショップにしては高い査定額を出してくれた上位2店舗は、どちらもTTHWで訪れた店舗だったのである!

(本ブログの読者の多くはTTHWを知っていると思うが、知らない人のために。TTHWはtofubeatsさん主催の「サイコロで出た目の金額で買った中古機材のみで音楽を作る新感覚音楽制作バラエティ」である。ピアノ男は、isagenとのタッグでプレイヤーとして1回、オーディエンスとして1回出演している。未見の方は是非。)

THREE THE HARDWARE - YouTube

思いもよらぬ巡り合わせに、いつの間にか押し入れに眠っていた無数の思い出が、ホコリを飛び散らしながら眼前にあらわになった。

これとは別に、てるお軍団と称する、関西にいた系列の人々でハードオフを訪れた時も、買取査定額が妙に高かったのを覚えている。大阪の人情?

 

喜んで、かつて訪れた店舗に売却を申し込みました。今後も売り買い共にお世話になります。よろしくお願いします。

 

それにしても状態の差があるとはいえ、以前別店舗で売却したmicroKORG XLより、音ゲーコントローラのほうが高くつくとは……

*1:ショップ名を出さないのは検索避けのため。ショップの人に見られると恥ずかしいので。誰もが知る有名な会社。

最近買った本、読んでる本、Twitter

読書家と言えるほど読んではないのだが、テレビを見る感覚で最近よく本を読んでいる。最近買った本は次の通り。

  • 津上 英輔 - 美学の練習
  • 井庭崇 - 複雑系入門 知のフロンティアへの冒険
  • 松田修 - 尼人

津上 英輔 - 美学の練習

先日丸善書店へ立ち寄った時に、今関心のある「複雑系」か「デュシャン」の本を買おうと思っていたのだが、いやどうせなら初版が新しい本を買おうと思って色々見てみたら発見。大学の先生が講義内容を基にお書きになった本のようだが、ガイダンスの章で

本書は美学のこれまでに蓄積された理論を紹介するものではない。そうではなく、読者が自ら美術と芸術について考え、その結果を自らの生に活かす手がかりとなることを目的とする

とあるように、過去の研究を全く踏まえない訳ではないのだが、筆者なりの考えで立ち向かう成分の強そうな本であったので、現在進行系で読んでる本と対比してバランスが取れそうだったので買ってみた。まだ28ページまでしか読んでないが、言葉はその手の本にしては比較的平易でありながらも、厳密に議論が進んでる気がする。

井庭崇 - 複雑系入門 知のフロンティアへの冒険

ペギオ先生を経由してこの分野をもっとよく知りたいという気持ちになったため注文、まだ届いてない。最近、複雑系はなぜ廃れたのかみたいなブログ記事を見かけて、なおさら興味が湧いた。

松田修 - 尼人

上の本を買うにあたって、あと少しでクーポンが適用されるという感じだったので一緒に注文。たしか会田誠のツイートで知った。まだ本人の作品を見たことがないのだが、彼の個展のレビューを見て、マリオが死に続ける作品とか、文化資本の地方格差を意識させるバックグラウンドとかが気になったので選んだ。文化資本の問題は自分もこの頃よく考えさせられる。

 

今、読んでる最中の主な本は次の通り。積ん読気味になってるものもあり。

  • 浦上 大輔,郡司 ペギオ幸夫 - セルオートマトンによる知能シミュレーション 天然知能を実装する
  • ピエール・バイヤール - 読んでいない本について堂々と語る方法
  • 松永 伸司 - ビデオゲームの美学
  • 大野左紀子 - アーティスト症候群

浦上 大輔,郡司 ペギオ幸夫 - セルオートマトンによる知能シミュレーション

GPY先生のお弟子さん(とGPY先生)の本。「やってくる」は万人にも読みやすい(いや読みにくいが)フォーマットであるが、こちらはセルオートマトンによる実装ということで理系向け。どっかで「GPY先生が稲妻だとしたら、私は避雷針」みたいなことを浦上先生が言っていて、確かに浦上先生執筆の章は今の所まだついていける。

シミュレーションのpythonコードがWebからダウンロードできるのだが、どれもめちゃくちゃ簡素で不安になってる。

ピエール・バイヤール - 読んでいない本について堂々と語る方法

何で知ったのか忘れたが、移動中読む用に新書サイズのが欲しくて購入。本を読むという行為は実際のところどういう事なのか分析されていて、結局の所それで良いのか?という気持ちと、それで良いんだという気持ちの半々。(まだ読んでる途中なのでこれぐらいのことしか言えない)

松永 伸司 - ビデオゲームの美学

その名の通り、ビデオゲームについて美学的に説明を試みる本。美学初学者的に、そもそも美学の勉強になる。こういうめちゃくちゃ厳密な議論(かなり嫌な言い方をすると、予防線を張りまくる)ってマヌケな俺には全然出来る気がしない……。分析美学ってやっぱ皆こういう感じなのか?でも自分がかつて居た自然科学なんてもっとそんな感じだしな……。

大野左紀子 - アーティスト症候群

のりぴがツイートしてたので読んでみている。香取慎吾ノリタケみたいなポジションのいわゆる「芸能人アーティスト」たちがめちゃくちゃ辛辣なことを言われていて面白い。と同時に、自分だってアカデミックな美術教育を受けていない手前、今後の活動次第でそういうポジションになってしまう可能性がめちゃくちゃあるわけで、身につまされる。

 

また読み終えたり、新しいの読み始めたら書きます。

 

 

ここからはTwitterに対する所見というか、ほぼ愚痴。

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「やってくる」読了

www.igaku-shoin.co.jp

 

半年近く前からGPY先生のやってくるをダラダラ読んでて、時に放ったらかしにしながら、やっと一通り読み終えた。

GPY先生の文章の中では平易なほうであるかもしれないが、多くの人がそう述べるようにやはり難解であった。何かまた別の経験を積んでからもう一度読んで、また別の経験を積んでからもう一度読んで、理解を深めるしかなさそう。

GPY先生は、様々な分野の知識や、常人の身にはなかなか起きないであろう経験をたくさん援用して、「問題と解答の間にズレを生じさせて文脈を逸脱」「外部を召喚する、受け入れる」「人工知能に対する天然知能」を読者に伝えようとしてくる。これは、一節読むとああなるほど、こういう事なのかもしれない、という気持ちにさせるのだが、次の節を読んだ途端、いや、次の段落を読む頃には「ああなるほど分からん」となるのである。そしてまた「ああなるほど」がやってきて、また「なるほど分からん」がやってくるのである。直観的に、この本の書き方自体が「やってくる」を体現しているのだと思わされる。

GPY先生については、数学的にデタラメなことを書いている(衒学的)といった批判もあることは確かで、GPY先生の用いる既存の学術について、厳密に知りたければ他の易しい説明をしてくれる人の書籍で勉強したほうがよいのかもしれないと思った。でも自分はGPY先生の書籍にそういった厳密な議論は求めてなくて、これは一旦バイブスと理性を行き来しながら読むものだと思う。

 

最近、広い意味での「コミュニケーション」について考えることが多い。この頃はコミュニケーションとは「無限遠で絶対に真の意味で理解することはできない"他者"を、それでも理解しようと前進する働き」だと単純化して考えていたのだけど、それは極めてGPY先生の言う「人工知能的」な考え方なのかもしれないと猛省した。

 

もっと整理して書きたいことが山ほどあるのだけど、今ここで時間と頭をいたずらに浪費するのはアンチ・コスパ/タイパ主義の自分ですら違うと思ったので、とりあえず外部を呼び込める作品を生み出せるよう頑張りまーすということで〆